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撮影報告 その163 中嶌哲演さん 明通寺にて

中嶌哲演さん(真言宗御室派棡山 明通寺の住職)

2012年11月26日。

雨。

13:00から明通寺で中嶌哲演さんのインタビュー。

喜美子さんが車を出してくれていっしょに来てくれた。

 

少し早めに出て、昨日会った佐藤さんの家に寄った。

佐藤さんは不在だったけれど、家の中を喜美子さんが案内してくれた。

よくここで仲間と飲み会をやるそうだ。

手作りの素敵な家だった。

ハンモックに揺られながら見る竹林はなかなかの風情だった。

 

そして明通寺へ向かった。

明通寺から見た集落

集落のどんつきにお寺はあった。

お庭がきれいに手が入れられて素晴らしかった。

紅葉もかろうじて残っていた。

 

1200年まえからある、由緒あるお寺なのだった。

三重の塔と本堂が国宝になっている。

 

その本堂の方から、傘をさした哲円さんがこちらに向かって静かに歩いてきた。

紅葉した木々、周りの風景に溶け込んだその姿はなんだか神々しかった。

そして穏やかに「田代さんですね。」と言った。

 

そして喜美子さんもいっしょに社務所の横の部屋でお話を伺った。

昨年、2回ほどお会いしているが、じっくりとお話を伺うのは今回が初めてだ。

3時間以上もお話をしてくださった。

学生時代に被爆者と出会ったことが、反原発活動をする原点になっていることがよくわかった。

40年以上も若狭の反原発運動の先頭に立ち続けている哲演さんが、今、何を感じているのかを私はお聞きしたかった。

地元・小浜に原発誘致の話が持ち上がった時、原発問題を初めて自分自身の問題としてとらえたこと、3.11の後、しばらく言葉を失い、動くことができなかったこと、今、希望の萌芽を感じていることなどをお話してくれた。

哲演さんと記念写真。

直接お話をうかがえて本当によかった。

私は哲演さんが大好きになった。

講演活動で多忙な中、時間を割いていただいて本当にありがとうございました。

 

 

それから喜美子さんの友人の池河地の坂上和代さんの家に寄った。

山間の集落の中にあった。

坂上さんの家にあがり、こたつに入り、みかんをいただきながらおしゃべりをした。

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撮影報告 その162 増井貴美子さん宅へ 三方郡上野にて

太田さんとくず子さん。(敦賀)

2012年11月25日。

ゆっくり起床。

母屋で太田さんとおしゃべり。

もんじゅのある白木集落の漁民は、敦賀の人に魚をピンハネされたりして、ひどい目にあっているが、人間的には差別はされていなかった。

敦賀は差別が少ないところなのだそうだ。

しかし、大飯原発のある大島半島の漁民は、若狭の人に人間的に差別されていたそうだ。

 

太田さんは、今、「欧亜国際連絡船の着いた港」という写真集をつくっている。

 

百年前に敦賀の写真を撮ったフランス人の写真にキャプションをつけたり、港町敦賀の太田さんの思い出を書いたりしている。

 

自分が生まれ育ち、今も暮らしている敦賀への太田さんの思いが感じられる。

昭和30年代、40年代の敦賀の町の写真も太田さんの家にはたくさんある。

カメラを持っていた友人が、趣味でコンテストに出すために撮っていた。

現像して気に入らなかったものを太田さんにあげていたので、それがたくさんあるのだそうだ。

紙芝居を夢中で見ている子どもたちや、港での荷物の積み下ろしの活気ある風景など、当時の敦賀を映し出していた。

 

太田さんは19歳の時からずっとネコと暮らしている。

これまで何匹ものネコと暮らしてきていて、その一匹一匹とに思い出がある。

 

ある時期は5,6匹も同時に飼っていたことがある。

野良だったネコが太田さんの家にいついて飼うことになるパターンだ。

ある野良だった雄猫ネコが病気になった。

病院に連れて行き、良くなって家に連れて帰ってきた。

ご飯をあげながら、太田さんはそのネコに

「結構お金かかって大変だから、もう病気はしないでね。」

と言った。

翌日、そのネコは太田さんの家を出て行ってしまい、それっきりだったそうだ。

太田さんは目に涙を浮かべながら、

「悪いことしてしまったわ。あんなこと言ってはいけなかったわ。」

と悲しそうに言った。

 

その他にもたくさんネコの思いでがあり、どれもいい話だった。

「太田さん、原発の本書いた後、今度はネコの話を本にしたらいいのに。」

と私は言った。

 

写真集の後は、太田さんの40年以上にも渡る反原発運動のことを本にしたいと思っているのだ。

 

昨日の満久先生の講演会のチケットを回収に坪田先生がやってきた。

火鉢にあたりながら坪田先生としばしおしゃべり。

そうこうしているうちに、夕方になってしまった。

 

『いのちか原発か 小出裕章×中嶌哲演』風媒社

哲演さんと小出裕章さんが対談した本を太田さんにお借りした。

 

そして私は三方の増井貴美子さんの家に向かった。

着いた頃はもう真っ暗になっていた。

貴美子さんがにこやかに迎えてくれた。

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撮影報告 その161 渡辺満久先生講演 in 敦賀

2012年11月24日。

ゆっくり起きる。

母屋へ行き、太田さんと昼まで火鉢にあたりながらおしゃべり。

太田さんの家

 

太田さんが終戦を迎えたのは15歳。

その時から、ほどけない糸の塊を頭の中にギューッと詰め込まれた感じが今も続いていると言う。

「終戦の時、日本人は民族の心としての哲学がないとつくづく思った。」

と太田さんは言った。

 

「私たちより年が上の人の昔話も面白いんですよ。自分たちがいなくなったら昔のことと伝える人がいなくなってしまうねえ。」

太田さんがポツリと言った。

 

「じゃあ、私が太田さんの話をビデオで記録しますよ。」

と私は言った。

「でも、原発のことやら嫌なことをたくさん思い出すからいややわあ。」

と太田さん。

「何言ってるんですか太田さん、今までたくさん私に原発の話をしてくれているじゃないですか。」

と私が言うと、

「そうですねえ。考えときますわ。」

と言った。

 

そうこうしているうちにお昼の時間になった。

「出かける時はね、きちんとしていかないといけないの。職業病ね。」

と言って、太田さんは素敵な服に着替えた。

太田さんは幼稚園の先生だったので、教え子やその親御さんに町で会うことも多いのだ。

着物をリフォームした服で、とても太田さんに似合っていた。

 

太田さんを車にのせて、昼は二人で中華料理屋へ食べに行った。

とてもおいしかった。

中央が杉原さん、右が渡辺満久先生。

その足で太田さんと渡辺満久先生の講演会へ向かう。

「若狭湾の原子力発電所と活断層」というタイトルの講演だった。

増井さん、杉原さんもやってきて、ごあいさつをした。

太田さんが敦賀市議会議員の今大地はるみさんを紹介してくれた。

230人以上も集まり大盛況だった。

太田さんと私は一番前の席に座った。

増井さんは

「寝てしまうかもしれんから、私は後ろの方に座るわ。」と言った。

太田さんも

「私も寝るかもわからんわ。」と言った。

満久先生の話はわかりやすかった。

一年半前に、私は函館で満久先生の話を初めて聞いた。

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新作撮影報告 その160 敦賀へ 太田和子さん

2012年11月22日。

苫小牧東港を23:30出航する船に乗り、福井県敦賀へ向かう。

去年の12月、敦賀の反原発をずっと続けている杉原さん、太田さん(紹介してくれた福井市の玉井さんいわく敦賀の2大女傑)の話をうかがった。

敦賀での数日間、泊まらせていただきながら、濃厚な時間を過ごした。

そしてその頃、大飯原発に再稼働阻止にむけて、明通寺の住職・中島哲演さんを中心に若狭湾の反原発の力を結集すべく動き出していたところだった。

その会合にも2回ほど参加させてもらった。

そこで、若狭の増井貴美子さんと出会った。

あれから一年。

大飯原発は再稼働した。

大飯原発を自分の目で見ることと、明通寺の住職で長年にわたり反原発運動をしてきた中島哲演さんのお話を聞きしたいと思った。

 

22:45。船に乗り込み、すぐにお風呂に入る。

前に乗った新潟便の船よりも新しいのか、露天風呂やサウナも完備されていてなかなかよかった。

お風呂から上がり、すぐ眠った。

2012年11月23日。

つくってきた玄米おにぎり、宮下さんからいただいたかぼちゃをふかしたものを食べる。

かぼちゃは栗のように美味しかった。

デザートは両親が送ってくれたみかん。

色や形がまちまちだが、これがとてもおいしい。

船の中では、夜に素うどんを食べただけですんだ。

20:30 敦賀港に到着。

21:00 太田さんの家に着く。

太田さんはにこやかに迎えてくれた。

くず子さん

くず子さんも相変わらず、毛並がよく美人だった。

火鉢にあたりながら、おしゃべりに花を咲かせた。

 

太田さんとくず子さん。

今日は日中外仕事をしたそうだ。

太田さんの庭には大きな木がたくさんあり、その枝を風呂をたく薪に使っている。

五右衛門風呂を使っているのは敦賀で太田さんの家だけになってしまったそうだ。

「一日中しゃべらない日は腰が痛くなるの。でもしゃべるとなおるの。」

と太田さん。

坐骨神経痛になった時は、びわの葉を痛いところにはったら、なおったそうだ。

などなど色んな話をした。

「反原発運動をやっていて、いい人にたくさん出会ったわ。田代さんや増井さんにだって反原発をやってなかったら絶対会ってなかったと思うわ。」

と太田さんはしみじみと言った。

でも同時に

「人類が絶滅するのが一番いいですわ。」とか、

「もんじゅが爆発すればいいんですわ。」

と、相変わらず過激なことを言っている太田さんなのであった。

まだまだ元気な太田さんで私は嬉しかった。

 

3.11後の今も、敦賀原発3,4号機の増設計画があり、敦賀市の河瀬一治市長も増設して欲しいと言っているのが今の敦賀の現状なのだ。

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撮影報告 その159 道南・南茅部にて

2012年10月24日。 朝、土居さんご夫妻といっしょに朝食。 私も必ず食べ物の包装の裏を見て、何が入っているかをチェックするが、土居さんもすごい。 納豆についていたタレの袋をみて、 「これ表示ないでしょ。」 と言った。 パックに入っているものは、パックに一つ中身の表示をしてあるが、 中身のひとつひとつには、何も表示がない。 従ってこのようにホテルなどでひとつひとつにばらされている場合は、中身がわからないのだ。 「ウチは、こんぶあめのひとつひとつの包み紙に表示しているんです。他のものも、原材料はもちろん、スペースかあったら、何をどのくらい入れているかまで書き込みたいんだけど。」 とお連れ合いが言った。 すごい。 土居さんの着ていたシャツがとてもオシャレで素敵だったので、 「そのシャツとても素敵ですね。似合っていますね。」と言うと、 「着ているものを初めて人に褒められました。実は息子にいいシャツを一枚くらい持っていたらいいと勧められて一緒にお揃いで作ったんです。」 と三代目は言った。 素敵な親子だなあと改めて思った。 南茅部高校 朝食後、土居さんご夫妻と南茅部高校にいっしょに行った。 教頭先生が対応してくれた。 三代目がひとしきり話をしてくれた。 そして土居さんご夫婦はあいさつ回りに行くので先に学校を後にした。 撮影、上映会のことなど、本当にお世話になった。 私は引き続き南茅部高校で話をした。 教頭先生が昨日の雁屋さんの講演会に参加した先生二人を呼んできてくれた。 教室からの眺め 講演会の時、質問をしていた英語の先生の米原さんが、学校を案内してくれた。 彼女はこの高校の前は帯広の農業高校に勤務していたそうだ。 共通の友人もいたりして話が盛り上がった。 「毎日海の色が違うんですよ。この教室からに眺めがよくってねー。」 と米原さん。 多目的室。 窓が船の窓のような形になっている。

昆布漁師の子が多いから、夏の時期は登校時間が遅くなるそうだ。

みんな漁を手伝って朝早くから働いているからだ。

「みんなたくましいですよー。」

と米原さんは言う。

 

ここからも海が見える。 米原さんは南部茅部高校に赴任して2年目。 生徒に頼んで、こんぶ漁の仕事を手伝ったこともあるそうだ。 資料室にて。 船の方位磁石。

平成9年まで漁業科があったので、その時使っていたものが色々と展示されていた。 現在は全校生徒76人のこじんまりした高校だ。

米原先生、ありがとうございました。 南茅部高校を後にした。 […]