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撮影報告 その168 彦根にて 宮下さんやってくる

宮下さんと奥田さん

 

2012年11月30日。

 

朝、寝ていた私の部屋の戸に奥田さんがノック。

「今、彦根駅にいると宮下さんから電話があったので迎えに行きます。」

と奥田さんは言った。

今回の撮影の旅に出る直前、新得の宮下さんのところに遊びにいった時、私が彦根に行く頃、宮下さんも関西に行くという話をしていた。

奥田さんの家に寄ってみようかなと宮下さんは言っていたが、その後連絡がなかったので来るか来ないかはわからなかった。

以前、大阪・阿倍野のヒューマンドキュメンタリー映画祭で、奥田さんは文代さんと会っているが宮下さんと会うのは初めてだ。

「空想の森」が縁で、奥田さんは宮下さんの野菜を取り寄せたりして交流が続いていた。

 

奥田さんに連れられて宮下さんがやってきた。

奥田さんの家で3人でゆっくりと過ごした。

私と宮下さんは午後、コーヒーのおいしい喫茶店へ行ってまたおしゃべり。

 

そして夜は鍋を囲みながら、宮下さんは「シアワセや~」と言いながら七本槍をおいしそうに呑んでいた。

 

宮下さんも奥田家に泊まらせてもらう。

明日は鳩真ファミリーのライブ本番で忙しい中、奥田さん、色々とありがとうございました。

撮影報告 その167 若狭から彦根へ

軒下に干し柿

2012年11月29日。

「あと一回山に雪が降ったら、ここも雪が降るわ。」

と貴美子さんは言った。

上野の集落

三十三間山に3回雪が降ると、里にも雪が降ると昔から言われているそうだ。

若狭での撮影を終え、今日は杉原さんと太田さんの家に寄ってから、彦根の奥田さんの家に向かう予定。

朝食をいただき、お世話になった感謝をこめて喜美子さんにご挨拶。

「娘を見送る親の心境みたいやわ。」

と、喜美子さんは涙ぐみながら見送ってくれた。

そして敦賀に向けて車を走らせた。

杉原さんの家

杉原先生の家へ行くと、ちょうどお昼ごはんを食べるところだった。

杉原敦子さん

いつものように、杉原さんはご飯を勧めてくれたが、私は朝食を食べたばかりだったので遠慮した。

 

杉原さんは88歳。とても元気に活動している。

先日の満久先生の講演会、来年早々の小出裕章さんの講演会、12月の選挙のことなどひとしきり話をする。

お土産に四国のうどんをいただいた。

「私は100まで生きるつもりや。いつでも泊りにきいや。」

と杉原さんは言った。

 

「今、太田さんの家から来たんです。」

杉原さんの家の前に停めた車に乗ろうとしたら、石地さんに会った。

去年お会いした人で、反原発運動を長くやってこられている方だ。

太田さんは石地さんのことを仏様のような人と言っている。

とても穏やかで優しい人で、杉原さんや太田さんの用事も色々こなしているのだ。

 

石地さんと少し立ち話をし、私は太田さんの家へ向かった。

太田さんはちょうど昼ごはんを食べるところだった。

「昼ごはん、食べませんか。」

と太田さん。

私もお腹がすいてきたので、いただくことした。

 

そして火鉢にあたりながらおしゃべりをしていたら、敦賀の歴史を研究している鶴田さんがやって来た。

「あー、ちょうどよかった。敦賀の歴史はこの方から聞いた話なんですよ。」

と太田さんは私に言った。

 

鶴田さんは、東洋紡で働いていて定年してから鶴賀の歴史を調べ始めた。

というのは、東洋紡は定年の数年前から、出向と言う形で原発に働きに出される。

炉心に近い高線量のところで働くのだそうだ。

すぐに線量計がピーピーなるので、詰め所で将棋をやったり、各自好きなことをしている時間の方が多かったそうだ。

鶴田さんは、そういう時、一人で外に出て敦賀の海をずっと眺めていたそうだ。

海を眺めているうちに、美しい海岸線だなあと思ったという。

そして敦賀というところはどんな歴史があるのだろうと調べ出して今に至っているとのこと。

[…]

撮影報告 その166 明通寺・大飯原発・高浜原発

貴美子さんの家の台所から。 2012年11月28日。 朝から天気がよかった。 陽の光に照らされた上野の集落が美しかった。 朝食をいただき、9:30に出発。 今日は、明通寺、大飯原発、高浜原発の撮影。 国道27号線を小浜方面に向かった。 原発事故が起こった時に、道路が遮断されるゲートがある。 上野の集落から国道に出て間もなくのところにそのゲートがある。 ここだけでなく、大飯、高浜原発の撮影の道すがら、このような遮断機をいくつも見かけ、下をくぐった。 万が一の時は、車で逃げることはできないのだ。 ちょっと信じられないことなのだが、人間も車も放射性物質とみなされて、外に出さないということらしい。 ひどい話だ。 でも現実にそういうゲートがあるのだ。 若狭の人はみんなこのことを認識している。 喜美子さんの家には25年以上前からガイガーカウンターを設置している。 亡くなったお連れ合いが、京大で何年か核物理を研究していて、放射能にたいする知識があった。 お連れ合いの実家・若狭の上野に戻った時から、万が一に備えて設置したのだそうだ。 そして、車では逃げられないので、自転車を用意している。 リュックの中に現金や最低限の必要なものを詰めてあり、万が一に備えている。 そして避難ルートも風向きによっていくつか想定してある。 「それでも、いつもどこかに不安があり、シャワーで頭を洗っている時とかに、もし今ガイガーカウンターが鳴っていたら・・・と思うことが度々あるの。」 と喜美子さんは言う。 2011年3月11日の事故直後から、貴美子さんの家のガイガーカウンターは頻繁に鳴っていたそうだ。 設定数値を低くしていることもあるが、1年半以上たった今でも、雨上がりの翌日などは鳴るときがあるそうだ。 福島の放射能はここ若狭にも確実に飛んできていると実感する。 10:00 明通寺に到着。 朝の光の中のお寺は実に美しかった。 三重塔、本堂はもちろんだが、まだ昨日の雨に濡れていた植物たちがキラキラとしていた。 「今年はあまりもみじが赤くならなくてね。いつもはもっと赤くなってもっときれいなんですよ。」 と、通りかかった副住職さん(哲演さんの弟さん)が、話しかけてきてくれた。 とても感じのいい方だった。 この弟さんが、あちこち講演でかけまわっている哲演さんを支えているのだなあと感じた。 明通寺で3時間も撮影をした。 13:00 大飯原発に向かう。 大島半島。この先の方に大飯原発が立っている。 途中、横道に入って大島半島のロングを撮影。 青葉富士と青戸大橋

 

 

青戸大橋 そして大飯原発へ行くためにつくられた青戸大橋を色んな場所から撮影した。 青葉富士がきれいだった。 青戸大橋の上。 その青戸大橋を渡り、いくつものトンネルをくぐり、いくつかの小さな集落を通り過ぎ、大飯原発へ。 建売住宅が並んでいるような漁村もあった。 大飯原発入口 大飯原発の入り口には警備の人が数人いた。 そこは写真だけ撮った。 原発入り口からすぐのところに、集落と海水浴場があった。 どこか少しでも原発が見えるところはないかと車で探した。 右側が海。景色が見えない。 海沿いの景色のいいところなのに、なぜか景色をふさぐように生垣があった。 […]

撮影報告 その165 大飯原発・高浜原発ロケハン

私の部屋から 上野の集落

 

2012年11月27日。

雨。

私は遅い朝ごはんをいただく。

 

喜美子さんの亡くなったお連れ合いの最後の言葉「形而上学の最後の一滴」が、石に刻まれて樹木葬をした木の脇に置かれていた。

台所に立つと見える場所にある。

いつも貴美子さんはお連れ合いと交流しているに違いない。

 

 

今日は雨なので撮影をやめ、大飯原発と高浜原発のロケハンに行くことにした。

 

 

 

貴美子さんの家

 

昼前、喜美子さんが三方湖に案内してくれた。

静かなたたずまいの湖だった。

そして喜美子さんの車について行き、お気に入りの小浜のカフェ2軒をめぐった。

アンティークの皿なども売っているカフェでランチを食べた。

 

喜美子さんは掘り出し物を見つけて買っていた。

もう一つのグリーンカフェにも行き、スィーツとコーヒー飲んでゆっくりと過ごした。

 

喜美子さんと小浜で別れて、私は大飯原発と高浜原発のロケハンへ。

海沿いの道をどんどん進んでいった。

青戸大橋を渡り、いくつものトンネルを抜けた。

 

大飯原発の入り口

 

大飯原発の入り口は物々しく警備の人が何人もいた。

この先に入れるかを警備の人に聞いてみたら、ここからは一般の人は中に入れないとのこと。

道からは原子炉建屋が見えない。

もう少し周囲を走ってみたかったが、夕暮れが近づいてきているので先を急ぐことにした。

青戸大橋

[…]

撮影報告 その164 明通寺 (福井県小浜市)

明通寺 本堂

明通寺 三重塔

明通寺創建の由来 (明通寺のパンフレットより)

時代は蝦夷征討に力を注いでいた桓武天皇の頃。

延暦20年(801年)、征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂が蝦夷の討伏に向かわされた。

田村麻呂率いる軍と、蝦夷の大将阿弖流為(アテルイ)率いる蝦夷軍の戦いの結果、田村麻呂は勝利し、朝廷による支配の拠点を作るために胆沢城造営を始めた。

敗退したアテルイと蝦夷の将・母礼(モレ)は、帰服して蝦夷の平和を願うことを考えたのだろうか。

胆沢城造営が着工して間もない延暦21年(802年)4月に田村麻呂を信じて降伏し、7月に両人は田村麻呂と共に朝廷へ帰服するために上京した。

 

 

田村麻呂はアテルイとモレを助命して帰し、彼らの力を借りて戦乱で疲弊した胆沢を復興させるべきだと朝廷に進言した。

しかし戦勝に沸き立つ朝廷側はそれを聞き入れず、いつ寝返るかもわからない者を帰すわけにはいかないとして、8月13日に二人を河内国椙山(大阪府枚方市牧野)で斬首にした。

 

「多年征戳する處の孤魂窮鬼を救わん」と坂上田村麻呂が、大同元年(806年)に明通寺を創建したと古文書類で伝承されている。

長年戦ってきた蝦夷たちの浮かばれない魂を弔うために、明通寺はつくられたのだ。

 

自分を信じて平和のために降伏してきたアテルイとモレを最後まで救うことができなかったという田村麻呂の悲痛な思いも込められているのではないだろうか。

 

このような由来のあるお寺の住職が中嶌哲演さんなのです。

 

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