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撮影報告 その1 ー始動ー

「空想の森」の完成から丸3年がたとうとした2011年3月11日、世界は変わった。 今、人は何を感じ、考え、どう未来に希望を見出そうとしているのか。 それを記録することから始めようと私は思った。 ここから先を見出していきたいと。 そしてこの4月から「空想の森」に関わってくれた全国の人たちを訪ねる撮影の旅を始めた。 まずは私が暮らす北海道から、「空想の森」で縁ができた人たちを訪ねて歩くことにした。 新得、鷹栖町、旭川、当麻町、七飯町、函館、森町、喜茂別町、洞爺町、月形町・・・。 この大震災・原発事故の全容がまだ分からない中、それぞれの人たちの想い・精神に触れた。 その熱に私は動かされている気がする。 その中でぶちあたったのが大間原子力発電所の建設問題だった。 この問題は作品の一つの大事な要素になると思う。 そして私は青森に渡り現場に身をおいた。 大間町の原告団の奥本征雄さんが3日間びっちり案内してくれた。 青森県・下北半島の最北に位置する大間町。 漁業の町だ。 ここにMOX燃料を使う原子力発電所が建設されようとしている。 大間と函館は海をへだてて18キロほどしか離れていない。 高台から大間原発を見てみると、原発のすぐ近くに民家、漁港がある。 大間原発 ・プルトニウムとウランを混ぜたMOX燃料を100%使用する世界初の原発。 ・大間沖に活断層が存在することを専門家が指摘している。 ・周囲の海水より平均7度高い温廃水が毎秒91トン放出される影響が心配。 あさこはうす 2011年5月5日。 「海と土地を大事にすれば、どんなことがあっても生きていける」と、 どんなにお金をつまれようと土地を最後まで売らなかった故・熊谷あさ子さんの遺した「あさこはうす」(青森県大間)は 炉心から250メートルしか離れていない。

このカーブを曲がるとあさこはうす。 国道から「あさこはうす」へ向かう道は約1キロ。 この道の入り口には電源開発が24時間体制で監視員を常駐させている。 道の両側はずっと有刺鉄線の柵で囲われている。原発の目と鼻の先に「あさこはうす」はある。 3月11日以降、監視員の見回る回数が多くなったと娘の厚子さんは言う。 私も撮影していたら監視員についてこられた。 向こうも小さなビデオを隠すように持って私を撮影していた。 2008年5月7日・8日。 函館で取材・撮影中、急きょ後藤政志さんの講演会を開くことが決まった。 5月7日に札幌のテレビ局に出演することになり、その足で函館に来てもらうことになったのだ。 弁護団の勉強会・一般の講演会と2日間びっちり撮影させてもらった。 後藤さんは元東芝の原子力格納容器設計者で工学博士。 事故以来全国で公演活動を行っている。 五稜郭タワーにて後藤政志さんと。 忙しいスケジュールの中のつかの間、大間訴訟の会の竹田さんと野村さんと4人で五稜郭に行った。 満開の桜だった。 私たちは「まさか後藤さんとお花見できるなんてねえ。」と喜んだ。 と言いながらも私たちは後藤さんに原子炉のこと福島のことなど質問し、 その話を聞きながら桜を横目で見ていたのだった。

 

この二日間、後藤さんとご飯を一緒に食べながら、歩きながら、なぜ原子炉を設計することになったのかなど、 本当に色んな話をし、濃密な時間を過ごした。 後藤さんという人は実に魅力的でお茶目なところがあり、そして誠実な技術者だった。 私たちと通じる部分がたくさんあった。 私の撮影に関しても、どうぞ何でも撮ってくださいと言ってくれて、様々な場面を撮らせてもらった。 函館・大間の人たちを中心に大間原発訴訟の会を立ち上げ、 国が電源開発(株)に出した大間原子力発電所の設置許可の取り消しと損害賠償、電源開発の工事差し止めと損害賠償という […]

「空想の森」に関わってくれた皆様へ

2011年3月11日。14時46分。

この時から日本は大きく変わりました。

この日から1週間くらい、私は何かわからないけれど、ひどく動揺していました。

自宅で大きな揺れを感じた直後から丸4日間、テレビやネットから配信される情報から、目が離せませんでした。

リアルタイムで津波が沿岸部を飲み込んでいく映像。

燃え続ける町。まるで爆撃を受けたかのような壊滅状態の町。

テレビのテロップでは死者・行方不明者数がどんどん増えていく。

それに加えて福島原発の非常に深刻な事故。

悪夢のように次々と原発が爆発。

そして放射性物質が流出。

水、食べ物、海、大気、そして人間も汚染されていく。

これが今、現実に起こっているのです。

これからどうなっていくのだろう。

心臓がバクバク、不安と恐怖がおしよせました。

今起こっている事柄が頭の中で処理できない中で、何も手につきませんでした。

被災地の人たちの今、そしてこの先のことを思うと胸が痛みます。

そして自分の非力を思い知らされました。

命からがら逃げてきた70代の女性が、テレビのインタビューにこう言いました。

「若い人がたくさん亡くなっているのに、私のような年寄りが生き残ってしまった」

こんなことを言わせてしまう状況がとても哀しい。

生きていくには希望が必要です。

希望はどこにあるのでしょうか。

私はいい事が考えられなくなり、悪いことばかりがぐるぐると頭の中を回っていました。

そして気持ちは滅入っていきました。

帯広の町は穏やかで平和でした。

でもきっと、どの人も、この震災で今起きていることが、頭の中にあるに違いありません。

日がたつにつれ、ネットやテレビで、この震災の全容が少しずつ明らかになってきました。

私は考えていました。

何が出来るのだろうか、どうしていったらいいのだろうか。

2011年3月11日に起こったことは、日本中の多くの人に影響を与え、

これから先もずっと、体のどこかにそれを抱えていくことになると思うのです。

私たちはこの未曾有の震災と原発事故に何を感じ、何を思い、そしてこれから先、希望をどう見出そうとしているのか。

それを記録しようと私は思いました。

そこから、何かが見えてくるのではないかと。

見えてくるのか、はたまた何も見えてこないのかはやってみなければわかりませんが。

日本が根底から変わっていかなければ、今抱えている様々な問題がこの先もずっとついてくるということ。

そのことが今回の大震災でよくわかりました。

そこでまず私は、今まで「空想の森」の上映に関わってくださった全国各地の人たちに聞いてみたいと思っています。

そこから始めていきたいと。

「空想の森」の上映活動も続けていきます。

撮影の準備をすすめながら、皆さんに取材・撮影をお願いしていきたいと考えています。

後ほど個々にお願いをしようと思っていますのでどうぞよろしくお願いいたします。

核分裂させて電気をつくっている場合ではない。

生身の人間が面と向かって話して起こる化学反応をたくさん起こしたいと私は思いました。

2011年3月21日 田代陽子