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撮影報告 その64 ヒルイカ漁

 

2011年11月28日。

4時半ころ自然に目が覚める。

外はまだ暗いが星がよく見えた。

そしてそれほど寒くない。

でも一応完全防寒の準備をしてまだ暗い中、5時半に宿を出発。

下手浜漁港に着き、山本さんを待ち構える。

6時きっかりに山本さん、息子の卓也さんがやってきた。

私たちは撮影を開始。

そして船に乗り込む。

山本さん、卓也さんはトイレのこと、寒さのことなど、私たちのことを気遣ってくれて恐縮した。

私も一坪君もこういう厳しい撮影には慣れているので気遣ってもらわなくても大丈夫なのだ。

山本さんたちに気を遣わせてしまい申し訳ない気持ちになる。

山本さんの息子さんの卓也さん。中学を卒業してから漁師をやっている。

明け方の海は何とも言えず神々しい。

その中で仕事をする山本さん、卓也さんは文句なくカッコいい。

しかし船の通路は狭く、着ぶくれした私が通るのはギリギリだった。

着込み過ぎて午前中は暑くて汗をかいた。

しかし午後は寒くなってきたのでちょうどよかった。

一坪キャメラマン。

一坪君は、私の撮って欲しいところをきちんと撮ってくれていたので安心してまかせられた。

漁場につくまで、卓也さんとたくさん話ができて嬉しかった。

原発のことを彼はとても考えていた。

魚は大丈夫なのか、生まれたばかりの自分の子供を守れるのか。

山本さんから、会津若松の片岡照美さんのユーチューブを見せられ、食事が喉を通らなかったそうだ。

自分も何かしたいと思ったそうだ。

自分は音楽が好きだから、音楽で何かできたらと思ったそうだ。

私はその話を聞いていてなんだか嬉しい気持ちでいっぱいになった。

私もいっしょにやっていきたいと思った。

卓也さんのインタビューもできたらいいなあとこの時思った。

出航して2時間くらいたったとき、気持ち悪くなってきた。

船が止まってユラユラしている時に気持ちが悪くなることがわかった。

まさしくこれが船酔いだった。

バケツに吐き海に捨てた。

今日は暖かく、風もほとんどないなぎの日。それでも酔うのだ。

朝ごはんを食べてないので胃液しか出なかった。

ひとしきり吐いたすっきりした。

私の異変に気付いた山本さんがブリッジから出てきて大丈夫かと私に尋ねた。

少し吐いたけどすっきりしたから大丈夫と答えた。

そして飴をくれた。

きつかったら港に戻るから言ってねと山本さんは私に言った。

 

撮影報告 その63 大間にて

宿の部屋から見える漁港。

 

2011年11月27日。

雨。宿のお母さんが、私たちが今日漁の撮影に行くと勘違いしていておにぎりをつくっていた。

おにぎりを食べ、午前中はゆっくり過ごす。私は事務仕事。

午後、大間温泉に行く。

ゆっくりつかった。

温泉で昼ご飯を食べようと思ったら、もう食堂は終わっていた。

帰りがてら何軒かの店に行ったがみんなしまっていたので、仕方なく宿に戻ると、お母さんが、おでんと餃子をつくっていて、部屋までもってきてくれた。

それを食べたらおなかいっぱいになってしまった。

大阪の岸本くんから電話があった。

彼は「空想の森」の録音部だった。

今は稼業をついで大阪で果物問屋をしている。

一坪君がミキサーやキャメラマイクについてわからないことを岸本君に聞いた。

私も久しぶりに彼と話をした。

すっかり大阪の商人になっていた。彼は彼でがんばっているのだった。

嬉しいのだけど、いっしょに映画をつくっていきたい仲間だったので何か複雑な気持ちになった。

山本さんから電話が来た。

明日予定通り6:00に下手浜漁港に集合ということだった。

明日はなぎでそれほど寒くないだろうと山本さんは言った。

撮影のイメージをつくるため、山本さんにいくつか質問した。

明日の漁のだいたいの流れはわかった。

電話を切って、さっそく一坪くんは機材の準備にかかった。

山本さんの漁船。宝昭丸。

山本さんの船かある下手浜漁港までの道が不安だったので、下見に行く。

その後、夕食は大間のマグロを食べに行く。

やはり大間のマグロはうまかった。

どういう映画をつくりたいのか一坪君に話をしたので、今回の漁の基本的に撮影は彼にまかせる。

明日の撮影の準備をして早めに寝た。

私は興奮してなかなか寝付けなかった。

お腹が調子悪かったのでそれだけが心配だけど、なんとか乗り切れるだろう。

[…]

撮影報告 その62 大間の漁師・山本さん

大間の漁師・山本さん。後ろが山本さんの船・宝昭丸。

 

2011年11月26日。

朝起きると、窓から函館がよく見えた。

函館山、五稜郭タワーまでも。

本当に近いと実感。三脚を立て、窓から撮影をした。

うっすら見えるのが函館山。

奥本さんが10時過ぎに宿に来てくれた。

そして一坪君を紹介した。

左から一坪君、奥本さん、野村さん。

 

少し話して、11時過ぎ、一緒に山本さんの家へご挨拶に向かった。

朱美さんがかぼちゃもち、つけもの、イカ、リンゴなどを用意して待っていてくれた。

一坪君を紹介し、ごちそうになりながら色んな話をした。

心に残る話が多かった。

 

山本さんがこんなことを言った。

「田代さんの映画のHP見ました。

その中の福島の会津若松の片岡輝美さんの話を女房と二人で見てボロボロ泣きました。

それで、自分の獲った放射能検査をしなきゃならないと思いました。

どうやったらいいんだべなあ。」私はびっくりした。

実は初めて山本さんにお会いした24日の日、色々な話の中で、山本さんは自分の獲った魚の放射能検査したくないと言っていた。

した方がいいのだろうが、もし出たらどうしたらいいのかわからない。

だからしたくない。漁師をやめてキノコ栽培でもやろうなかとも言っていた。

それを話している時の山本さんの顔は本当につらそうだった。

自分でも心配なものを売らなくてはいけない苦しさはどれほどなのだろうと私は想像するしかなかった。

この秋の撮影で群馬にいった時も、農家の人たちが漁師の山本さんと同じように苦しい思いをしているのを目の当たりにした。

どれほどの生産者の人たちがつらい思いをしているのだろうと思うと胸がつぶれるようなやりきれない気持ちになってくる。

その山本さんが会津若松の輝美さんの話で、検査をしようと思ったのだ。

私はとても嬉しかった。

でも山本さんはぼそっと「HP見なかった方がよかったなあとも思ったりもする。」と言った。

正直な気持ちだと思う。

一人じゃできないからどうやって漁師仲間に話すのか、もし出たらどうするのか、これからの課題は山のようにある。私たちも頭を抱えながら色んなアイデアを言ったりした。

もう一つ。山本さんの話。

これは女房にも言ったことないんだけどと、山本さんは話しだした。

漁の最中、荒れた沖で船の中に海水がどんどん入ってきて船を立て直せず何度も死ぬ目にあっているそうだ。

その時、とにかく息子を助けたい、他に何もいらないと本当に思ったという。

自分の遺伝子を継いだ息子がもう一人の自分のように思えると。

そして福島の子供たちの話題になると、朱美さんは涙を流しながら声を詰まらせた。

野村さんも泣いていた。

その時、山本さんがとてもやさしい顔で「母ちゃん、お茶持ってきて。」と言った。

朱美さんはそれに気が付かず泣きながら話していたら、山本さんがもう一度「母ちゃん、お茶持ってきて。」と言った。

朱美さんは「あー、お茶ね。」と言ってちょっと笑って台所に立っていった。

私はなんだか温かい気持ちになった。

左から野村さん、山本さん、一坪君。

野村さんが午後のフェリーで函館に帰るので、山本さんの家を後にした。

[…]

撮影報告 その61 一坪くん、大間に到着

カーブを曲がるとあさこはうす。正面の建物が原子炉建屋。

2011年11月25日。

朝はゆっくり起きた。

朝食後、自分の部屋の海が見える窓辺で野村さんのインタビュー撮影。

4月にも話をうかがったが、今回3.11から8か月が過ぎた今、何を感じ、考えているかなど、この大間の地で聞いてみた。

昼はラーメン屋に行き、私はラーメン、野村さんはカキフライ定食を食べた。

その後、おさこはうすに行ってみた。

やはりいつ行っても、監視小屋と有刺鉄線は異様に感じる。

そして宿に戻り、それぞれ仕事をする。

宿の部屋で仕事をする野村さん。

 

18:40過ぎ、野村さんと一緒に一坪君を迎えに大間崎のバス停に向かう。

朝に東京を出発し、途中強風で電車が止まり、バスを乗り継ぎ来てくれた。

久しぶりに会った一坪君は少したくましくなっていた。宿に着いて、早速私はキャメラのカッパを一坪君につくってもらった。

そして奥本さんに電話して一坪君が到着したことを報告。

奥本さんが、「長旅で疲れているだろうからゆっくり休ませあげなさい。」と言った。

私は「いやー、それが今早速働いてもらっているわ。」と言った。

そして近くの焼き鳥屋へ夕食を食べに行った。

高倉健さんの話も二人でキャッキャッしながら聞いた。

色んな話をした中で、一坪君が「今回呼んでもらってよかったです。」と言って、自分の3.11の話をし始めた。

私はとても嬉しかった。

また一坪君と一緒に映画をつくれるのだと思うとなんだか力が湧いてきた。

今まで一人でやってきたので、仲間がいるこの嬉しさといったらない。

ああ、今撮っているこの映画も、今回でまた一つ階段を上がったなと思った。

夜、奥本さんに電話をして、今回24年ぶりに原発の学習会を大間でやってみての感想を改めて撮影させて欲しい旨を伝えた。

28日以降、時間のある時に受けてくれることになった。

撮影報告 その60 嵐の中の原発学習会

大間の漁師・山本さんの家の玄関に20年以上も前からはってあるステッカー。 2011年11月24日。 山本昭吾さん、朱美さんご夫妻。 10:00。強風。奥本さんが宿に迎えに来てくれる。 そして今回漁の撮影をさせてくれることになった山本さんのお宅へ連れて行ってくれた。 私は少し緊張していた。 山本さんと奥さんの朱美さんは私たちを快く迎えてくれた。 今日は初対面なのでとにかく撮影の趣旨を話し、どういう人なのかお互いにわかったらいいなあと思っていた。 漁の船には女は乗せないのが普通で、乗せるとしたら自分の奥さんだそうだ。 山本さんが女の私を船に乗せてくれるということは特別なことなのだ。 奥本さんとの信頼関係があってこそ、了解してくれたのだと思う。 山本さんが訥々と穏やかに語る話はとても興味深く、私たちは話にひきこまれていった。ヒルイカ、海の底の地形の話、漁場の開拓の話、震災後の漂流物の話、ソ連が核廃棄物を海に捨てたものを実際海で漂流しているものを発見した話、原発の話、お二人の馴れ初めの話など、色々な話をしてくれた。 お昼ご飯もご馳走になった。漬物がとてもおいしかった。 滋賀県に滞在していた時に持っていた素材のテープで「山田農場から全国の人へのメッセージ」という12分くらいにまとめたDVDを山本さん夫婦に見せた。 これは、道南の大沼で山にヤギや牛を放牧してそのお乳でチーズをつくっている山田圭介・あゆみ夫妻がなぜ大間原発の建設に反対しているのかということを、12分くらいに編集したものだ。 そしてなかなか話が尽きず、結局15:00頃までお邪魔した。 私はすっかり山本さん夫妻が大好きになった。 山本さんに出会えて本当によかった。 帰りの車の中で野村さんとコーフン気味で話をした。 外はものすごい風だった。 5時過ぎ。 私たちは少し早めに私たちは学習会の会場の大間町公民館へ向かう。 とても年季の入った建物だった。 奥本さんと佐藤さんが会場の準備をしていた。私も撮影の準備をした。 大間町公民館 外はものすごい雨と風。嵐だ。 大間原発裁判の状況について報告する予定だった大間訴訟の会の事務局の大場さんはフェリーが欠航したため来られなかった。 なんていう天気になってしまったのだと思った。 大間で24年ぶりに行われた原発の学習会

開始の時間になった。全部で20人弱の人が集まった。 先ほど会った漁師の山本さんも来てくれた。 しかし関係者を除くと、かなり人数は少ない。 主催者の奥本さんと佐藤さんの挨拶の後、講師の石丸小四郎さんの話が始まった。 石丸小四郎さん 石丸さんは福島県双葉郡の郵便局に勤めながらずっと反原発運動をしてきた人。 今回の福島第一原発の事故で、自分の家には帰れなくなった被災者の一人でもある。 石丸さんが話すひとつひとつの言葉が重く響いた。 今福島ではとんでもなく高い放射線量の中で暮らすことを強いられている現実、自分の家ではない今の暮らしは本当に疲れること。 当たり前にあった日常が奪われたことのつらさがひしひしと伝わってきた。 そして私は大間原発のことを考えずにはいられなかった。 話の途中地震があった。 結構揺れが強く、講師の石丸さんは後ろに会った本棚を抑えていた。 大場さんの代わりに、奥本さんが大間原発裁判の状況について簡単に報告をした。 今回の学習会にあまり人が集まらなかったけれど、これからも色々な角度から原発の学習会を続けていきますと奥本さんは言った。 そして交流会は向かいの焼き鳥屋。 石丸さんを囲んでさらにまた色々な話をした。 私は石丸さんの話が聞けて本当に良かった。奥本さんはきっと改めて大間の現実は厳しいと感じたのだろうと思う。 でも私はこんな嵐の日に20人弱の人が来てくれたことはすごいことだとも思う。 大間原発の工事は福島の事故以来今ストップしている。 しかし工事再開に向けて県や町も動き出している。 私も自分に何ができるのか考えている。 […]