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大間原発訴訟について

2011年10月21日、「大間原発訴訟の会」は経済産業省に「大間原発建設中止」の署名を提出しました。 その報告が原子力資料情報室のユーストリームでありました。 大間原発訴訟の会・代表竹田とし子さん、原告団の弁護士・森越清彦さん、会の事務局長・大場一雄さん、それから資料情報室の澤井正子さんが東京の原子力資料情報室で大間原発のこと、裁判のことを話しています。 下記をクリックすると見られます。 http://cnic-movie.blogspot.com/2011/10/blog-post_22.html

 

次回は2011年12月9日に第4回大間原発訴訟の第4回口頭弁論が函館地裁にて行われます。 誰でも傍聴できます。私は2回目の裁判から傍聴しています。裁判はとても面白く、原発のことがよくわかります。 原告から毎回二人ほど意見陳述をします。これがとても胸にせまります。 そして、原告の弁護団による福島原発の現状、大間に原発ができたらどんな危険があるのかということを、パワーポイントを使ってわかりやすく解説してくれます。

大間原発訴訟の会事務局 北海道函館市松陰町1-12 TEL/FAX 0138-51-9718 blog http://ameblo.jp/ooma/

 

大間原発訴訟の会 原告会員 年3000円 支援会員 年2000円 郵貯口座 02710-0-96583 口座名 大間原発訴訟の会

なくせ!原発10.30大集会 in ふくしま

会津若松で取材させていただいた会津放射能情報センター代表の片岡輝美さんの「なくせ!原発10.30大集会」(福島市)での挨拶の動画です。

 

http://www.youtube.com/watch?v=cXce88B9Uy8

それから、週刊金曜日の11月4日号に、片岡輝美さんのメッセージが掲載されました。

撮影報告 その56 広瀬 隆氏講演会

広瀬 隆さん。 2011年10月16日。 函館市亀田福祉センターにて広瀬隆さんの講演会。 日曜の夜にもかかわらず、320人の人が集まった。 私は3.11以降、ネットで毎日のように広瀬さん関係のユーストリームなどを見ていた。 この講演会の実行委員のメンバーは大間原発訴訟の会の人がたくさんいた。 左から大間訴訟の会の代表の竹田さん、ピーター・ハウエルさん。 左が大間訴訟の会の森越弁護士。 左が大間訴訟の会の事務局の大場さん、その隣が野村さん、右が中森さん。 野村さんは司会。 広瀬さんの取材をする石川さん。 札幌から小野有五さんもやってきた。泊原発の廃炉を目指す会のリーダー。 広瀬さんの講演の前に泊原発のことを話した。 広瀬さんは2時間半しゃべりっぱなしで、時に声をあらげ、ばっさばっさと切っていく。 一刻も早く、原子力発電所を止めたいと切に思う。 そのためにまず、原子力に関しての勉強し自分で判断できる知識を得ること、それと同時に、自分にできることをやっていくことが大事なことだと改めて思った。 しかし原発を止めても尚、危険な状態が続くことに違いはない。 そして、これから私たちはこの時代をどう生きていくのかということが問われてくるのだと思う。 広瀬さんはパワーポイントで写真や表をスクリーンに出しながら、飽きさせることなくすごいテンションで話をしていた。 自分の講演は2時間半では足りない、最低3時間は必要と言っていた。 野村さん。 竹田さんもご挨拶。 講演会の後の交流会。 交流会も20人くらいの人が参加した。 それぞれひとりづつ自己紹介などをして交流をした。 ずっと反原発運動をしていた人、3.11後に関わり始めた人、いろいろな人がいた。 森越さん。 私はまたビールを飲んだ。 野村さんは大事をとってお茶だった。 彼女が居酒屋でお茶をすすっているのが不思議な感じだった。 でも、今日の午前中はどうなることかと思ったので今晩はお酒を飲まない方がいい。 交流会はうおまさでやった。 ここのおかみさんも講演会に参加。広瀬さんの著書がさっそく店のピアノの上に置かれていた。 大場さんは相変わらず大好きなビールを飲みいい気分になっていた。

 

左から、野村さん、石川さん。

 

私と石川さんは野村家に泊まる。 竹田さんが車で送ってくれた。 竹田さんも大間原発の講演で飛び回っていて多忙を極めている。 みんな3.11以降、怒涛の日々が続いている。 体の疲れもたまりにたまっているはずだ。 野村家に帰り、結局3人で2時ころまで話してしまう。 話が尽きない。 […]

撮影報告 その46 大賀あや子さん・大熊町の人たち 会津若松 

会津若松栄町協会 2011年10月6日。 今日もインタビューの場所に教会を使わせていただく。 大賀あや子さん。 1986年、彼女が中学生の時に起きたチェルノブイリ原発事故のの時からずっと反原発運動をしている。 その後、福島県大熊町に移り住み、ハイロアクションの活動を精力的にしていた。(ハイロアクション福島原発40年実行委員会は、2011年3月26日~2012年3月26日までの1年間を「ハイロ(廃炉)アクション年」にしようという呼びかけに集まった福島県内各地の有志により、2010年11月23日に結成された。) そんな矢先に被災し、現在は会津若松で避難生活をしている。 インタビューの前に彼女が、この撮影に関してひっかかっていることがあると私に言った。 そんなこともあってか、このインタビューに輝美さんに同席してもらうことを彼女はお願いしていた。 輝美さんは少し離れたところに静かに座わり私たちを見守っていた。 彼女の話を聞いた。 会津若松まで来ているのに、なぜもっと被害がひどい福島や郡山に行かないのか、大変な思いをしている人の話を聞かないで、被災地から遠く離れたところの人の話をきいてどうなるのか、マスコミが伝えてくれないことがたくさんあるのに。 映画がいつできるかわからないのに、今の話をしてどうなるのか、概ねこのような内容のことを私にぶつけた。 実は前日の10月5日の朝、撮影先の栄町協会に出かけようと準備していた時、大賀さんから電話があった。 この日、福島市・渡利地区における土壌汚染調査結果の記者会見と緊急報告会が福島であるので、 ぜひそこに行って取材して全国に伝えて欲しいという趣旨だった。 私はこの日はすでに木暮さんさから紹介してもらった片岡輝美さん、折笠哲也さん、そして木暮真由美さんのインタビュー撮影をする予定が入っていた。 そのことを伝えると、会津若松はそれほど大変なところではないし、いつでもその人たちには会えるから、それをキャンセルしてでも福島に行って欲しいと言われた。 彼女がその件に関しての資料をメールを送るのでぜひ考えて欲しいということで電話は切った。 そしてその資料に目を通した上で、私は彼女に今回の撮影の意趣旨を説明し、そこに行くことを申し訳ないが断った。 栄町協会の大人のしゃべり場に大賀さんも参加すると言っていたので、その時直接話せると思っていたが、 彼女は来なかったので5日は会えなかった。 という経緯があった。 向かい合って座る大賀さんに、私は今回の撮影の趣旨を再度説明した。 全国の「空想の森」に関わってくれた人、縁ができた人たちに現時点で3,11のことをどう受け止め、何を感じ、考え、どう未来を見出そうとしているのかを聞いて記録することから始めようとしていることを。 そして、ではこの時代をどう生きていくのかということを映画で描いていきたいこと。映画を完成させるには時間がかかること。 1時間以上も彼女と話をしたが、その点は平行線のままだった。 彼女が腑に落ちないままンタビューをするのもどうかと思ったのと、ただでさえ大変な状況なのに、私の取材でこれ以上ストレスをかけたくなかったのでやめましょうかと聞いた。 すると彼女は腑に落ちないことを話したし、こういう状態でもいいならお話しますと言ってインタビューを受けてくれた。 インタビューの前の大賀さんとの話で、原発事故で被災された人の気持ちに直に触れられた。 本当に大変な状況の中に生きていることがわかった。 そして私がやるべきことも明確になってきた。 大賀さん、ありがとうございました。 大賀あや子さん。 大賀さんのインタビューの後、輝美さんに栄町協会の中を撮影させてもらった。 ステンドグラスから美しい光が差し込んでいた。 なんか神聖な気持ちになる。 ずいぶん古そうなオルガンが二つ並んでいた。 その一つは野口英世が洗礼を受けた時に使われたものだそうだ。 別室では9条の会の会議が行われていた。 輝美さんが私を会のメンバーに紹介してくれた。 部屋の壁には、この教会が1911年に建った頃の写真など、古い写真がいくつか貼られていた。 この栄町協会は様々な出来事と共に、人が集う場であり続け、その思いが詰まっている教会なのだなと感じた。 一つの願いに向かって、それぞれの人がそれぞれの思いで動いている。 そんなことを感じながら、私もできることをやっていこうと思った。 18:30。会津若松入りした初日にお会いした積田さんが迎えに来てくれて、積田さんの車で東山温泉のおやど東山に向かう。 大熊町の人を受け入れている宿で、今も何人かの人たちがまだ仮説に入れずにここで過ごしている。 積田さんは本職はデザイン事務所を経営しているが、震災後ここで支援活動を始めた。 そして宿の人や避難している大熊町の方々と仲良くなった。 今回はすでに仮設住宅に移動した人にもおやど東山に来てもらった。 そして今回の撮影の趣旨をみなさんに説明した。 大西義昭・啓子夫妻(ダムの管理の仕事)、長谷川勘一・三重子夫妻(農業、奥さんは大熊役場職員)、横川公治さん(農業・町の臨時職員)、荒木俊夫さん(農業を引退)、そして宿の支配人の小柴力男さん、おかみの佐藤恵子さんも同席してみなさんのお話をお聞きした。 宿の方と避難してきたみなさんが強い絆で結ばれていた。 大熊町の皆さんも初めは何を話したらいいか戸惑いながらも、時間がたつにつれて、震災の当日のこと、避難所に落ち着くまでのこと、これからの不安などそれぞれ色んな話をしてくれた。気心の知れた仲間といっしょだったこともあり、和やかに話をお聞きできた。 宿の人たちも大熊町の人たちが来たばかりの時のこと、その時の気持ちなどを話してくれた。 […]

撮影報告 その45 大人のしゃべり場・片岡輝美さん・折笠哲也さん・小暮真由美さん 会津若松 

2011年10月5日。 若松栄町教会。1911年に建てられた。野口英世もこの教会で洗礼を受けたそうだ。 片岡輝美さん。 片岡輝美さんのご両親がこの教会の牧師さんだった。 生まれも育ちも会津若松。子育てはもう終わったが、4人の子供のお母さん。 一目お会いした時から私は輝美さんが大好きになった。 今は輝美さんの夫・謁也さんがこの教会の牧師さん。 謁也さんともお会いして少しお話をした。 素敵な人だった。 とてもいい声の持ち主だ。 輝美さんは現在、会津放射能情報センター、放射能から子どものいのちを守る会・会津、9条の会などなど、 子供を守りたいという強い気持ちから精力的に活動している。 若松栄町協会へ向かう。 ここで小暮さんが紹介してくれた片岡輝美さん・折笠哲也さんのインタビューをする。 その前に、この教会でこの日たまたま大人のしゃべり場という会が開かれることになった。 子供を持つ若いお母さんが集まって思っていることを話したり、情報交換をするというので、それを撮影させてもらうことになった。 みんなが集まってくる前に、輝美さんに今回の撮影の経緯と趣旨を説明する。 教会の裏の建物の一階はこの3月まで教会でベビーホーム(託児)をしていたそうだ。 現在は大熊町から避難してきた子供たちの託児室になっていた。 小さな子供たちが10人ほどいてにぎやかだった。 その2階で大人のしゃべり場が開かれた。 ここは会津放射能情報センターの事務局でもある。 教会も素敵な建物なのだが、この建物も木造でなかなか気持ちがいい。 お茶やお菓子を食べながらのみんな思い思いのことを話す。 福島、郡山など放射線量の高い地域から自主的に会津若松に避難してきたお母さんも何人かいた。 初めての人もいるので、自己紹介をしながら自分の状況を語った。 ここに集まってきたお母さんたちは、原発や放射能に対してよく勉強している人ばかりだった。 渡邊愛さん。 妊娠8か月。福島から会津若松に自主避難してきている。 自分の町を出る時も大変な思いをし、避難してきてからも後ろめたい気持ちや、ここも大丈夫だろうかという思い、 それは受け入れてくれている会津若松の人に対して悪いのではないかと思う気持ち、 抱えているどうにもできない気持ちをお母さんたちは静かに語った。 撮影をしながらファインダーが見えなくなった。 私は初めて撮影しながら泣いた。 輝美さんがちり紙をそっと持ってきてくれた。 函館や高崎でもこのような会に参加したが、切迫感が違う。 どれほど子どもが心配なことか。 しかし、こうやって顔を合わせて話をすることがいかに大事なことかはどこの地域・どんな状況でも同じだと感じた。 齊藤久美子さん。 南相馬市から避難している女の子を喜多方市の自宅で受け入れている。 時間がたつにつれ、皆さんリラックスして話をしはじめた。 とても集中した撮影だった。 教会の近くのタイ料理屋さんに輝美さんとお昼を食べに行く。 ここであらかたの話をお聞きした。本当に大変な思いをしたのだなと。 その後、教会に戻り、改めてインタビュー撮影をさせてもらう。 被災者の人を受け入れている会津若松の人も被災者なのだということがよくわかった。 折笠哲也さん。会津若松で飲食店を経営している。 折笠さんが教会に来てくれて、インタビューをさせてもらった。 彼も小さい頃、この教会のベビーホーム(託児)に来ていたそうだ。輝美さんとも色々な活動を一緒にしている。 最近、 輝美さんの息子さんに来た健康管理調査の用紙。

 

スェーデン王国、ガンマデータ・インストゥルメント社製の食品の放射線量をはかる機械。 これを購入したそうだ。11月に届くそうだ。 […]