2011年12月22日。
朝食。納豆、ご飯、味噌汁、ホウレンソウのおひたし、りんご。
9:00過ぎ。
奥田さんに見送られ、彦根を出発。大阪の「こんぶ土居」を目指す。
こんぶ土居は、原材料を吟味・厳選し、伝統ある大阪の食文化を守り育て、
本物を次代に伝えることが使命だと考えている昆布屋さん。
土居さんは、北海道の南茅部の昆布を使って製品にしている。
この夏、ここの4代目・土居純一さんが大間原発の話を聞きに北海道の山田農場を訪ねてきた。
そして大間へ渡り、奥本さんの案内で大間原発の現場にも行き、六ヶ所も見て大阪に帰ったのだった。
私はその話を山田夫妻と奥本さんから聞いてとても感動した。
誇りと責任をもって仕事をしているから、現場に立ったのだと思った。
関西に行く際にはぜひ土居さんのお話を伺いたいと思い、大間の奥本さんに紹介していただいたのだった。
大阪に入ると車線が増え、車もいっぱいで渋滞。
慣れない都会の運転に緊張しながら、ようやく近くまでたどり着く。
からほり商店街
12:20。
商店街のアーケードにぶちあたり、それ以上進めなくなる。
土居純一さんに電話したら歩いて迎えにきて下さった。
とても素敵な人だった。
いっしょに車に乗っていただき、お店の駐車場に車を入れた。
商店街の中の一つのお店だが、うまそうなものがありそうな店構えだ。
早速店の中に入らせていただき、商品を見させていただいた。
どれもおいしそうなものばかりでワクワクした。
商品の裏の表示をみると見事に添加物類の表記はなかった。
店はそれほど大きくはなく、売り場の裏で全ての商品を製造しているとのことで驚いた。
昆布の選別作業もレジのすぐ後ろでやっている。
「昆布屋は12月が一番忙しいんです。すいませんバタバタしていて。」
と純一さんが言った。
私はとても恐縮して「いえいえ、こちらこそ師走の忙しい時期に来てしまってすいません。」と言った。
純一さん、3代目の土居成吉さん、そのお連れ合いと従業員の方は5人が総出で働いていた。
そんな中、純一さんが仕事を中断して、二階の和室の落ち着いたお部屋で話を聞かせてくれた。
自分たちは昆布があるから店かできて生活ができている。
その昆布をとる生産者の人も大事であること。
何百年も続いている昆布の文化を守ることも自分たちの使命と考えていること。
3代目の成吉さんは、30年以上前から道南の南茅部の浜に通っている。
少しずつ漁師さんたちと信頼関係を築いてきて、
12年ほど前から毎年秋に南茅部の小学校に食育教育の一環で昆布の話をしにいっている。
今では南茅部の高校生が修学旅行でこんぶの土居を訪ねてくるようになったそうだ。
純一さんはこんな話をしてくれた。
昭和30年代から40年代にかけて昆布の機械乾燥が始まり質の低下がみられた。
昭和30年代から40年代にかけて昆布の機械乾燥が始まり質の低下がみられた。
それを改善してもらいたくて3代目の成吉さんは浜に通い始めた。
当時、昆布を扱う店の者が直接産地に行くことはなかった。
買い付けに来たのかと誤解され、冷たく扱われた。
しかし根気強く通い、メディアにも取り上げられるようになり生産者の人たちの心が動いていった。
という経緯があった。
そして息子の純一さんは9年前から家業を継ぎ、平成16年から毎年昆布漁が解禁になる夏に、
南茅部のへ行って漁師さんと寝食を共にして漁をしに行くのだそうだ。
そうしてお互いの信頼関係をつくっている。
昆布には天然と養殖と促成の3種類がある。
昆布は2年で大きくなる。胞子で増えていく。
養殖は、胞子を培養して赤ちゃん昆布を育てる。
海面にロープを張り、そこに赤ちゃん昆布をくっつける。
そうすると、昆布は下に向かって大きくなっていく。
天然ものは海底から上に向かって大きくなっていく。
促成昆布とは、赤ちゃん昆布を日照時間と温度でコントロールして育てるもの。
この場合は1年でできる。
その代わり味はあまりおいしくないそうだ。
ただ、柔らかいので、ほとんどのところでは、とろろ昆布として使われる。
大阪の堺は刃物の町だった。
かつて昆布加工業者が100軒ほどあったが、現在は2軒になった。
とろろ昆布を削るのは、今でも職人さんの手作業で行われているそうだ。
これだけは機械でできないとのこと。
その職人さんの年がいってきて、
とても固い天然昆布を削ることができなくなった。
促成昆布の方が柔らかいので削る作業が断然楽なのだ。
固い天然昆布を削る職人さんがいなくなり、土居さんは困った。純一さんは、
前に昆布削りの職人さんに弟子入りして、その技術を持っていた。
ということで現在、土居さんでは天然昆布を純一さんが削っているのだった。
昆布は産地から送られてきてから2年ほど寝かしてから製品にする。
温度や湿度を管理する。そうするとおいしくなる。
昆布屋という仕事への思い、そして原発についての思いをうかがった。
自分たちの暮らしに原発は相容れないこと、大間原発が死活問題であることがよくわかった。
それは山田農場の圭介さんたちとまったく同じである。
近所のお蕎麦屋さんが原発問題に取り組んでいることもあって、純一さんは3.11の前から原発のことを勉強していた。
そして今、原発の是非を問う住民投票を呼びかける活動をはじめた。
そのチラシが店のレジの横に置いてあった。
どうしたら原発を止められるか、どうしたら大間を止められるか、
大阪に暮らす自分たちに何ができるか、土居さんも考え続けていた。
みんな同じことを考えているのだと改めて思った。
何かいっしょにできないかなあと私は思った。
純一さんのお話を2時間ほどたっぷりとお聞きして、1階に降りると、3代目・成吉さんが昆布の選別をしていた。
純一さんが紹介してくれて、ご挨拶をした。
いわゆる大阪の商人というイメージとはかけ離れた方だった。
それは息子の純一さんもだが。
穏やかで温かくて、お話しをしていて楽しい方だった。
成吉さんが添加物の話など、選別をしながら話をしてくれたので、
「撮影させてもらっていいですか」と伺うとどうぞと言ってくれたので、早速撮影させていただきながらお話を伺った。
昆布の選別をする純一さん。
それから、純一さんが交代して選別の仕事をはじめた。
そしてそこでも話をしながら仕事を撮らせていただいた。
裏の製品をつくっているところも撮影させていただく。
昆布の佃煮をパックにつめているところ、だしをつくっているところなどを撮らせていただく。
そしてまた二階に上がり、成吉さんがコーヒーを落としてくれて、美味しいお菓子といっしょにいただいた。
とってもおいしいコーヒーブレイクでホッ一息ついた。
ここで映画の話、原発、料理など様々な話をした。
私は今晩大阪に泊まることにしていたので、晩御飯にお勧めの店を教えて欲しいと純一さんにお願いしていた。
晩御飯の話になった時、成吉さんが、
「ここの近くの中華の店がいいのではないかな。」と言った。
純一さんも「僕もそう思っていました。田代さんに合うと思う。」と言った。
そして、自分が仕事を変わるから、一緒に田代さんと食べてきたらいいと成吉さんは言い、
すぐに店に電話をかけて二人の席の予約を入れてくれた。
「北海道から大事なお客さんがきていて・・・」と言ってくださっていたのには大変恐縮した。
一年で一番忙しい時期に、時間を割いていただいてしかも食事まで一緒に付き合ってくれるなんて…。
18:00。仕事をまたもや中断して、純一さんと二人で歩いてお店に向かった。
商店街の筋から外れたところにその店はあった。
純一さんが通っていた小学校の前だった。
今この学校は少子化でなくなったそうだが、グランドに小学校の面影が残っていた。
初めて出会った中華料理だった。
ちょこっとずつ、色々な種類のものが出てきて、どれもこれも目にも美しくそしておいしかった。
デザートはゆずのゼリー。
さっぱりと食事を終えた。
こんなお料理なら毎日でも食べられると思った。
食べながら、また純一さんといろんな話をして本当に楽しかった。
店に戻ると閉店はしていたがまだ、総出で働いていた。
私は好物の塩昆布、ちりめん山椒を買った。
そして今夜の宿探していただき、純一さんに宿まで送っていただく。
成吉さんは外まで出て見送ってくれた。
昆布、出汁などお土産までいただいた。
私は純一さん・成吉さんに出会えてとても嬉しかった。
この人の縁ってほんとにありがたいものだと思った。
「空想の森」でできた縁を大事にして撮影を進めてきてよかったとしみじみ思った。
9:00。
ホテルに入った。
間もなく少し酔った野村さんから電話がかかってきた。
私も先日少し酔って彼女に電話をかけた。
そしてまた長電話。
2011年は野村さんにとっても私にとってもすごい年になった。
2011年は野村さんにとっても私にとってもすごい年になった。
お元気ですか。
今、大阪ですか。
こちらは、大雪です。
「あさこはうす」からSOSというメールメールをもらい、ブログでそのこと書きました。その時、田代さんのブログから、写真を使わせてもらってしまいました。事後了承で、申し訳ありません。
その後も、コメントいっぱいもらいました。
大間の原発を進めたい人達も必死なのですね。
監督は、北海道にはいつ頃かえって来ますか。
時間があれば、旭川で大間の話などしてもらえればと思っています。