明通寺創建の由来 (明通寺のパンフレットより)
時代は蝦夷征討に力を注いでいた桓武天皇の頃。
延暦20年(801年)、征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂が蝦夷の討伏に向かわされた。
田村麻呂率いる軍と、蝦夷の大将阿弖流為(アテルイ)率いる蝦夷軍の戦いの結果、田村麻呂は勝利し、朝廷による支配の拠点を作るために胆沢城造営を始めた。
敗退したアテルイと蝦夷の将・母礼(モレ)は、帰服して蝦夷の平和を願うことを考えたのだろうか。
胆沢城造営が着工して間もない延暦21年(802年)4月に田村麻呂を信じて降伏し、7月に両人は田村麻呂と共に朝廷へ帰服するために上京した。
田村麻呂はアテルイとモレを助命して帰し、彼らの力を借りて戦乱で疲弊した胆沢を復興させるべきだと朝廷に進言した。
しかし戦勝に沸き立つ朝廷側はそれを聞き入れず、いつ寝返るかもわからない者を帰すわけにはいかないとして、8月13日に二人を河内国椙山(大阪府枚方市牧野)で斬首にした。
「多年征戳する處の孤魂窮鬼を救わん」と坂上田村麻呂が、大同元年(806年)に明通寺を創建したと古文書類で伝承されている。
長年戦ってきた蝦夷たちの浮かばれない魂を弔うために、明通寺はつくられたのだ。
自分を信じて平和のために降伏してきたアテルイとモレを最後まで救うことができなかったという田村麻呂の悲痛な思いも込められているのではないだろうか。
このような由来のあるお寺の住職が中嶌哲演さんなのです。
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