2012年11月24日。
ゆっくり起きる。
母屋へ行き、太田さんと昼まで火鉢にあたりながらおしゃべり。
太田さんが終戦を迎えたのは15歳。
その時から、ほどけない糸の塊を頭の中にギューッと詰め込まれた感じが今も続いていると言う。
「終戦の時、日本人は民族の心としての哲学がないとつくづく思った。」
と太田さんは言った。
「私たちより年が上の人の昔話も面白いんですよ。自分たちがいなくなったら昔のことと伝える人がいなくなってしまうねえ。」
太田さんがポツリと言った。
「じゃあ、私が太田さんの話をビデオで記録しますよ。」
と私は言った。
「でも、原発のことやら嫌なことをたくさん思い出すからいややわあ。」
と太田さん。
「何言ってるんですか太田さん、今までたくさん私に原発の話をしてくれているじゃないですか。」
と私が言うと、
「そうですねえ。考えときますわ。」
と言った。
そうこうしているうちにお昼の時間になった。
「出かける時はね、きちんとしていかないといけないの。職業病ね。」
と言って、太田さんは素敵な服に着替えた。
太田さんは幼稚園の先生だったので、教え子やその親御さんに町で会うことも多いのだ。
着物をリフォームした服で、とても太田さんに似合っていた。
太田さんを車にのせて、昼は二人で中華料理屋へ食べに行った。
とてもおいしかった。
中央が杉原さん、右が渡辺満久先生。
その足で太田さんと渡辺満久先生の講演会へ向かう。
「若狭湾の原子力発電所と活断層」というタイトルの講演だった。
増井さん、杉原さんもやってきて、ごあいさつをした。
太田さんが敦賀市議会議員の今大地はるみさんを紹介してくれた。
230人以上も集まり大盛況だった。
太田さんと私は一番前の席に座った。
増井さんは
「寝てしまうかもしれんから、私は後ろの方に座るわ。」と言った。
太田さんも
「私も寝るかもわからんわ。」と言った。
満久先生の話はわかりやすかった。
一年半前に、私は函館で満久先生の話を初めて聞いた。
その時は原発に対して淡々とクールな感じだったのが、今は、これはないでしょ!という感じで熱く語っていた。
いくら耐震強化しても活断層の上の建物はぺしゃんこになるということがよくわかった。
しかし、活断層だらけのところに若狭の原発は立っている。
講演会後、同じ建物内で、来年1月13日に開催される小出裕章さんの講演会のスタッフ会議があった。
増井さんに誘われ、私と太田さんも参加した。
若者が中心となっていて、30人以上の人たちが参加。
チラシやチケットを分担した。
杉原さんが、若者たちがつくったチラシを見て、
「年寄用のチラシはないんかい。これじゃ、字が小さすぎてよく見えんわ。文字も多すぎる。これじゃ、年寄は読まん。」
と言った。
中心メンバーの河合くんが、
「はい、年寄用も作ります。」
と言った。
するとすかさず、他の人が、
「河合君、年寄用は失礼でしょ。」
と指摘した。
そのやりとりがなんだかおかしかった。
夕方、太田さんの家に帰った。
夕飯は、市議の今大地さんのダンナさんがやっているおでん屋が美味しいというので、そこに太田さんと食べに行くことになった。
近所なので二人で歩いて行った。
八新といういい感じのおでん屋だった。
とてもおいしかった。
途中、今大地はるみさんもやってきて、敦賀の話、原発の話、自然エネルギーの話など、いろんな話をした。
10時過ぎまでおでん屋で話をしていた。
太田さんもとても楽しそうに話していた。
そしてまた二人で歩いて帰った。
寒かったけど、星がきれいに見えた。
母屋で少し話をしてから私は離れの自分の部屋へ。
あっと言う間の一日だった。
それにしても太田さんの話は面白い。
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