2012年9月8日。
去年の今頃、福島県・会津若松市の栄町教会で愛さんに出会った。
小さな子をもつお母さん方を中心に、何でも思っていることを話したり、
情報を交換したりしようという「大人のしゃべり場」という企画に彼女は参加していた。
私は片岡輝美さん(会津放射能情報センター代表)に、ぜひ見て行ってくださいと言っていただき、
撮影させてもらえることになったのだった。
その時愛さんは妊娠中。
お腹が大きかった。
自宅は福島市。
放射線量が高い。
これから子供を産むことを考え、やむなく自主避難で会津若松にやってきた。
そんな中、愛さんはキャメラに向かって率直に今の気持ちを話してくれた。
置かれている現状は非常に厳しいのだけど、彼女は人間に対して希望を持っていた。
明るさと強さを私は感じた。
「生まれてくる子は、男の子ってわかってるんです。
名前はもう決めています。
春の希望で『春希』にします。」
と愛さんは私に言った。
子供が生まれたらまた会いに来ようとその時思った。
それから一年。
私は再び会津若にやってきた。
春希くんは元気な男の子だった。
2011年12月17日に生まれた。
笑顔がめっちゃかわいい。
無事に生まれて本当によかった。
もう人見知りするようになったとのことだったが、
私がだっこしても泣くどころかニカっと笑ってくれ、とても嬉しかった。
あれから一年たった今の現状を愛さんと夫の和也さんに話していただいた。
和也さんは、介護の仕事をしてる。
会津若松の自宅から福島市の勤務先まで車で2時間をかけて毎日通っている。
私も今回、福島市から会津若松まで車で通ってきた。
山越えの道で毎日通うことがどれだけ負担なのだろうと思わずにはいられない。
県内の自主避難している人に対しては何の支援がないのが現状だ。
引っ越しにかかる費用、家賃、諸々全て自腹。
愛さんたちは民間のアパートに住んでいる。
そのすぐ裏には市営団地が立っている。
ぱっとみたところでも、開き部屋がけっこうある感じだった。
愛さんたちも、もちろん家賃の安い市営団地の方がよかったが、規則で入れなかったのだそうだ。
会津若松に住民票がないといけない。
持ち家がある人はダメ。
これがその規則。
自主避難ということでは、受け入れてくれなかったそうだ。
経済的、体力的、そして精神的にも非常に苦しい状況でも、子供のことを考えるとやむを得ない。
一方、県外避難した人たちには支援や援助かある。
なんで?これは変じゃないか?
同じ福島県人なのに県内に避難した人にはなにも支援がないのはおかしい。
行政に要望しても個人ではまともに相手にしてくれなかった。
せめて同じように扱ってほしいと、渡邊さん夫妻は「福島県に県内自主避難の権利を求める会」を立ち上げた。
(ブログ http://blogs.yahoo.co.jp/kennai_jishuhinan)
自分たちのような立場の人間がいるということを知ってもらいたい。
支援を受けている、いない、保障をもらっている、もらってないで、
原発事故によって同じように被害を受けている人たちの心が分断されている現実がとてもつらいと渡邊夫妻は言った。
自分たちの家もあり、二人のご両親の暮らす福島市に帰りたい。
まだ生まれたばかりの子供を連れて帰ることができる状態になるのだろうか。
先がまったく見えない。
見えないけれど、自分たちなりのめどをつけていないと、とてもこれからの日々をやっていけない。
春希くんが小学生になる時に、福島市に帰りたいと今思っているという。
戻った時に周りの人たちが自分たちを快く受け入れてくれるだろうか。
自主避難する時に、福島を捨てていくのか、と言われたそうだ。
避難する時、まるで自分が悪いことでもしているかのように心が苦しかったと。
残ることを決めた人たちも、どこかで放射能に対する不安を抱えてながら日々を生きている。
「出た人も残った人も、福島の人は全員苦しいんだと思う。」
と言った愛さんの言葉が重く響いた。
和也さん・愛さんたち3世帯で立ち上げた「福島県に県内自主避難の権利を求める会」。
福島県内から自主避難してきている人の数や、どういう状況にあるかということはいまだによくわかっていない。
その実態を調べて欲しいと県や会津若松市に何度もお願いにいっているが、なかなか調査してもらえない。
自分たちでチラシをつくったりして、県内に自主避難している人たちを堀り起こしていき、現在会員は30世帯になった。
自分だけじゃない。
仲間ができた。
「それが一番の良かったことかな。」
と二人は言った。
和也さんは今日は夜勤勤務。
夜8時に家を出て勤務先の福島市に向かう。
明日も渡辺家を撮影させてもらう。
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