雪降る中、久しぶりに深夜まで友人たちとおしゃべり。
20代・30代を共に遊んだ仲間。
よく食べ、よく飲んだ。
月見の会、誕生会、川泳ぎ、厳冬期キャンプ、縄文研究会、タイコ、祭りの出店、そして映画祭などなど。
綿密に計画し、時には周りも巻き込み、本気で遊んだ日々。
前のめりな感じもわるくない。
大事なことを話せて共鳴する友人たち。
さあ、また明日がやってくる。
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雪降る中、久しぶりに深夜まで友人たちとおしゃべり。 20代・30代を共に遊んだ仲間。 よく食べ、よく飲んだ。 月見の会、誕生会、川泳ぎ、厳冬期キャンプ、縄文研究会、タイコ、祭りの出店、そして映画祭などなど。 綿密に計画し、時には周りも巻き込み、本気で遊んだ日々。 前のめりな感じもわるくない。 大事なことを話せて共鳴する友人たち。 さあ、また明日がやってくる。
昨年11月から12月にかけて、大間、函館で、一坪悠介キャメラマンと新しい映画で初めて一緒に撮影をしました。 その時の撮影報告を書いてくれたので、掲載します。
青森県・大間町・あさこはうすにて。 一坪悠介キャメラマン
「いま」を、そして「これから」をどう生きるのか・・・。 撮影部:一坪悠介
田代監督と一緒に映画作りをするのは今回が2本目になります。 1本目の「空想の森」が完成し、上映が始まってもう2、3年は過ぎたと思いますが、撮影していたのはさらに2年ほど前だったと思います。 まだ、僕はそのとき24歳でした。 ポレポレ東中野で「空想の森」を見たとき、このあと田代さんは何を撮るのだろうと思いました。 録音をやっていた岸本さんも同じことを考えていたようです。 ドキュメント映画は、「なぜ、今この映画なのか」ということが劇映画よりも製作するうえで大きなモチベーションになります。 自分が訴えたいこと、描きたいことが明確になければ、なかなか作れるものではありません。 正直なことを言えば、田代さんは「空想の森」を作り終えて、良い意味で監督としての資質を全て使い果たしてしまったのではないか、とも思っていました。 なぜなら、「空想の森」を見終わったときに、田代さんの映画はそのとき完結していたからです。 最近よくある中途半端な「空想の森2」みたいな映画は見たくないし、田代さんはそういう映画は作らないだろうと思っていたからです。 次回作を作るとしても、相当な充電期間が必要になるだろうと思いました。 あれから5年が過ぎ、僕は29歳になりました。 そして、吹雪く大間崎で迎えてくれた田代さんはあの時と同じように、つまずいてしまいそうになるほど前のめりな監督でした。 また一緒に映画を撮れることに大きな喜びを感じました。
大間、函館での二週間の撮影すべてはここでは書ききれませんが、田代さんの車で訪れた土地の全てで素晴らしい出会いがあり、新たな発見がありました。 ドキュメント映画の撮影の面白いところがまさにそれです。撮影をしなければ間違いなく知り合うことのなかった人々の人生に触れ、己の生き方や思考を見つめなおす機会を与えてくれます。 僕にとっての今回の映画の始まりは、やはり3月11日の震災と原発事故だと思います。 あの日、僕は別の映画の撮影で北九州に滞在していたため、ニュースで事の重大さを知りました。 帰京予定が2ヶ月後だったため、東京に残してきた妻のことがとても心配でした。 あの日を境に、漠然と色々なことを考えるようになりました。 妻のこと、家族のこと、友人のこと、地震のこと、原発のこと、この国の在り方、政治、教育、幸せ、生きる、守る、そして次の世代のこと等々・・・。 まとまりがなく、そして答えらしきものも見出せませんでした。 あの震災を目の当たりにして何も感じなかった人はいないと思いますが、具体的な行動にうつせない自分にいら立ちながら、仕事に追われて日々を送っていました。 なぜ焦っているのか、何に焦っているのかわかりませんでした。ただただ、考えていました。 そんな折、同じように考えていた田代さんから今回の映画のお話を頂きました。 「空想の森」のその後を追いかけて、登場人物の方々にインタビューをしている矢先に震災を経験し、悩んだ末に今回の映画を製作することを決意したそうです。 田代さんは、3月11日の震災と原発事故を経験した私たちが「いま」を、そして「これから」をどう生きていくのか、己の在り方、それぞれの幸せの尺度をもった人々やその家族、友人たち、彼らの生活を追いながら模索していきたいと言いました。 僕は是非やらせてほしいと即答しました。 なぜなら、それは僕が震災以降、何か掴めないままやみくもに考え続けていたことの正体であり、そしてそれはきっと今のこの国に暮らす人々が皆等しく漠然と感じていることだと気付いたからです。 誰のためでもなく、自分自身が今後どう生きていくのかを模索するために、この映画に参加したいと思いました。 […]
福井県・敦賀の杉原厚子さんから電話があった。 昨年末、私が杉原さんのところでお世話になった時に、 たまたま一緒だったジャーナリストの東条君が今また取材で来ているということだった。 「東条君は見込みがある。」と杉原さんはことのほか彼をかわいがっていた。 「前より話もずいぶん上手になっとったわ。」など、杉原さんは嬉しそうに話をした。 今、山本太郎さんが福井にきているそうだ。
2月20日で関電のすべての原発が止まった話題になる。 敦賀市の市長・河瀬 一治氏が、原発をなくしたら夕張のようになってしまうと言っているそうだ。 「夕張のようになってもいいから、放射能で死にたくない。」と杉原さん。 ひとしきり話をした後、 「東条君が昼を食べに戻ってくるから支度するわ。あんたも体鍛えて元気でがんばらなあかんよ。」 と言って電話を切った。 相変わらずの元気な声を聞いて私は嬉しくなる。 敦賀も、私にとって大事な人がいるとても近いところになったなあ。
*東条雅之さんのHP・スナメリチャンネルです。 http://sunamerichannel.jimdo.com/ ザマーズ。左から田口敦子さん、池田敦子さん、須藤瑛子さん。
2012年2月12日。 ザマーズとは、池田敦子さん、須藤瑛子さん、田口敦子さんのこと。 時によって増えたりもするが、元祖はこの三人娘だ。 神奈川県座間市在住。 どこの組織にも属さず、米軍基地反対運動をしている。 辺野古、韓国などにも出かけていき、座り込みやデモなど、精力的に活動している。
辺野古でドキュメンタリー映画を撮影していた藤本さんと、座り込みに来ていたザマーズが出会ったのが5,6年前。 そこで、ザマーズが新得・宮下さんの20年以上前からのお客さんだったことが判明。
それからザマーズは空想の森映画祭に毎年参加するようになった。 映画もしっかり見るし、たくさんビールを飲むし、スタッフとして賄いの食事などをまかされ、映画祭には欠かせない存在になっている。 筋が通った元気のいい女性たちだ。
「空想の森」の製作中から応援してくれていて、完成してからも何度も映画を観てくれている。
小田急線・座間駅からほど近いところで、須藤さんが「エプロン」というお弁当屋さんをやっている。 ここがインタビューの場所。 以前遊びに来た時も、ここでたくさん食べて飲ませてもらった。
昨年12月9日の大間原発訴訟の裁判に、ザマーズは函館まで傍聴にきてくれた。 そしてその後、函館で楽しい時をいっしょに過ごした。 だから今回はあまり久しぶりと言う感じではなかった。
三人それぞれが手料理をつくってきてくれた。 春巻き、太巻き、大根サラダ、韓国料理などなど、テーブルいっぱいに料理が並んだ。 みんな料理上手なのだ。 もちろんビールなど酒も用意していた。 私が撮影しようとすると、まず食べてから、食べてからとザマーズが言う。 そうするとまったく撮影できなくなると思い、食べるまでは撮影をした。
どれもとてもおいしかった。 ビールもすすんだ。 食べながら色んな話にとんだ。 ザマーズは昨日の2月11日、代々木にデモに行っていた。 そして今日、こうして料理をつくって集まってくれた。それだけでもありがたかった。
案の定、みんなお酒も進み、もう撮影はいいでしょう、ということになった。 私もあきらめて、本格的に飲んで食べてしゃべった。 ザマーズから今日もたくさん力をいただいた。
[…] 左:冨田玲子さん、右:私
2012年2月6日。 1月下旬。 一通の手紙がきた。 象設計集団の富田玲子さんからだった。 少し前に、私は新しい映画の製作協力のお願いの手紙を出していた。 そのお返事だった。 3.11にご自分が感じたこと、思ったこと、今どういう気持ちで仕事をしているかなどが綴られていた。 そして、この映画づくりに心の底から賛同しますと書かれてあった。 私はとても感動して嬉しくて富田さんに電話をかけ、直接お会いしてお話をうかがいたいとお願いした。
富田さんは建築家。今まで様々な建物をつくってきている。 私が初めて彼女にお会いしたのは2008年。 「空想の森」が完成して東京・ポレポレ東中野で上映が決まり、その宣伝活動をしていた時だった。 とても穏やかで柔らかくて芯が強そうな素敵な女性という印象が強く残っている。
富田さんを紹介してくれたのは十勝の象設計集団の町山さん。 新得のお披露目上映の時「空想の森」を見に来てくれた。 そして映画をとても気に入ってくれて、東京の富田さんを紹介してくれた。 私が東京に滞在中、富田さんの著書「小さな建築」(みすず書房)の出版記念パーティーがあった。 町山さんはそこで私を富田さんに紹介してくれただけでなく、 パーティーに参加された方をたくさん紹介してくださり、映画も宣伝してくれた。
象設計集団東京事務所
機材を担いで建築好きの野村さんも一緒に、象設計集団東京事務所を訪ねた。 桜新町の事務所を訪ねるのは初めてだった。 数年前にここに引っ越してきたそうだ。 前の事務所は、庭に大きな木があって味のある建物で素敵だった。 新しい事務所も大きな一軒家。 庭が広く大きな木がたくさんあって、ちょっとした公園のようでなかなか心地いい。 「コンクリートや高いビルにはもういられなくなってしまったの。」と富田さんは言った。
この日、富田さんはコンペの締め切り日で、それが終わってから、インタビューをさせていただいた。 なぜ建築家になろうと思ったのか、象設計集団はどのようにして立ち上げたのかなどもお聞きした。 富田さんに質問されて、私もけっこうしゃべったりもした。 様々な話題になってとても楽しかった。 富田さんは「シロタ家の二十世紀」(藤原智子監督)の企画に関わっていて、その撮影にも同行した。 富田さんは天才ピアニストのレオ・シロタの愛弟子・藤田晴子さんからピアノを習っていた。 そして藤田さんが亡くなり、富田さんは藤田さんから、遺産を文化のために使ってくださいと託されたのだった。 その遺産をどう役立てようかと考えている時に、たまたま藤原監督とばったり出会ったそうだ。 それでできた映画が「シロタ家の二十世紀」だった。 「空想の森」と同じ年にこの映画もできて、私は富田さんからこの映画の話は聞いていた。 それを知って野村さんは興奮していた。 […] |
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