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撮影報告 その83 敦賀の歴史と敦賀原発・もんじゅ・美浜原発

もんじゅ。 美浜原発。

 

敦賀原発。

 

2011年12月17日。 8:00。起床。 雨や時々みぞれが降っている。 太田さんの家にて。 朝食後、薪ストーブの部屋で太田さんの歴史の話をお聞きした。 敦賀の歴史を4世紀の頃にさかのぼって色々な話をしてくれた。 個人授業のようだった。 敦賀の歴史は実に面白い。 知らないことばかりだった。 「あなたそんなことも知らないの?」と太田さんに言われながら、あっという間に午前中が過ぎた。 越前水仙 昔、週に1回、太田さんの家に集まって反原発の運動をして色々やっていたが、うまくいかなかった。 なんでこんなにやっているのにうまくいかないのだろうと太田さんは不思議に思ったので、敦賀の歴史を研究している岡田先生に聞いたそうだ。 岡田先生は「庶民の歴史を知ったら、反原発運動がうまくいかないとわかる。」と言ったそうだ。 太田さんは目からうろこだった。 庶民に歴史があると思ってもいなかった。 それから歴史を勉強しだした。 そんな中、太田さんは、「アイヌのことを教えてほしい。」と岡田先生に言った。 すると先生は「民族に関する研究は日本ではタブー。 なぜなら天皇につながるから、だれもお金を出す人はいないので、研究する人もいない。」と言ったそうだ。 太田さんからいただいたえんぴつと専用のえんぴつ削り。 太田さんは太くて濃い鉛筆で、裏紙に書いて私に説明してくれた。 その書き心地がよさそうだったので、その鉛筆とてもいいですねというと、東京の画材屋さんのもので、まだあるから後であげるわと、2本いただいた。とても嬉しかった。 みぞれ混じりの雨は止まなかったので撮影はできなかった。 その代わり、太田さんはとても面白い歴史の個人授業をしてくれたのだと思う。 贅沢な時間だった。 私の疑問になんでも答えてくれた。 このカップもいただいた。旅に持ち歩こうと思う。 そうしているうちに東条さんがやってきた。 杉原さんが持たせてくれたタコ飯、おでん、おかず色々など、お昼ご飯を3人で食べた。 そして東条さんと2階の資料館を太田さんといっしょに見学した。 昔の写真、かご、ガラスのコップ、弁当箱、着物など、なかなか見応えがある。 太田さんが「あなたお酒好き?」と私に聞いた。 「はい。大好きです。」と答えた。 すると「もらってもらいたいものがあるの。」と箱に入った九谷焼のきれいな絵付けのとっくりとおちょこのセットだった。 「こんないいものを。」と言ったが、「あげる人を探していたの。」と太田さん。 私は美しい九谷焼をありがたくいただくことにした。 13:30過ぎ、私と東条さんは白木へ向かった。 美しい海岸線と山々だった。 美浜原発。 しばらく走ると美浜原発が目に飛び込んできた。 途中みぞれの中、車を止めて撮影。 白木トンネル それからいよいよもんじゅへ。 今地震が起こらないで欲しいよねと東条さんと言いながら山道を走った。 白木トンネルを抜けたところ。右へ行くともんじゅ。左へ行くと白木。 白木トンネルを抜けた。 雨は止んでいた。 目の前は海。 後ろは山が迫っている。 […]

撮影報告 その82 杉原厚子さんと太田和子さん ~敦賀にて~

太田和子さん。今も体調がいい時には原電の前に立っている。 これれと下の写真は杉原さんの家の食堂に張ってある。

阿弥陀見の浜。

2011年12月16日。

8:30。起床。冷たい雨が降っている。

朝ごはん。

私はまた野菜をたくさん入れて雑炊をつくった。

杉原さんと東条さんと3人で朝食。

杉原厚子さん。

10:00。杉原さんのインタビュー。

東条さんも自分のビデオで撮影。

戦争の話、小学校の先生時代の話、原発の話などお聞きする。

敦賀は昔、北前船、北国船の港で、交易の中心地としてとても栄えていた。

敦賀からウラジオストックの航路があり、敦賀の人は下駄をはいてウラジオストックに行ったそうだ。

杉原さんが小学校の時、先生が「皇運扶翼の為に日本人は生まれてきた」言った。

その意味がわからなかった杉原さんは先生に質問した。

「アメリカ人は何の為に生まれてきたのですか?」と。

「そんなこと考えんでもいい。」とひどく怒鳴られたそうだ。

それ以来、疑問に思うことを先生には質問しなくなったそうだ。

そんな杉原さんは小学校の教師になった。そして敗戦を迎えた。

今までそして一度教師をやめた。

今まで子どもたちに何を教えてきたのかと悩んだそうだ。

そしてまた教師に戻った。

杉原さんは3人の兄がいた。幸いみんな帰ってきた。

一番上の年の離れたお兄さんは、復員してきてから暴力をふるうようになりとても怖かったそうだ。

その頃はその理由がわからなかったが、もうそのお兄さんは亡くなってしまったが、最近その理由がわかったそうだ。

きっと戦地で人を殺し、悲惨な状況の中にいて心に傷を負っていたのだと。

「その頃わかってあげられなくてかわいそうなことしたなあ。戦争はほんま、嫌ですわ。」

とぽつりと言った。

杉原さんと東条さん。

杉原さんは松原小学校で先生をしていた。

日本が敗戦して、敦賀半島には僻地に四つ、分校があった。

若い時に今もんじゅが建っている白木分校に何か月が教えにいったことがあるそうだ。

その頃の白木は交通の便が悪く、病人が出ると戸板に乗せて船で美浜まで運ばなければいけなかったという。

しかし海がしけていたらそれもままならなかった。

陸路はないに等しい状態だったそうだ。

「よう覚えとらんけど、イカをたくさん食べたなあ。おいしかったなあ。」

と杉原さんは言った。

現在、白木には15軒ほどの民家がある。

甲状腺癌になる人が多いと白木で介護をしていた人から聞いたそうだ。

「戦争中と今はおんなじや。政府は嘘ばっかりいっとる。」と杉原さんは何度も言った。

そしてそのことと、地球を汚したくないという思いが杉原さんの反原発の原点であることが分かった。

 

[…]

撮影報告 その81 山崎隆敏さん ~越前市~

2011年12月15日。

9:00。起床。東条さんはすでに起きていて杉原さんとご飯の支度をしていた。

杉原さんは朝魚市場に行ってタコ、ブリの子、タラなどたくさん魚を買ってきていた。

タコをゆでで、タラを煮つけにしていた。

昨日のうどんの汁の残りに、モチ、白菜、大根、ネギなどをいれて煮た。

東条さんは杉原さんの手を引き、ゆっくりと車にのせる。

11:30。車に撮影機材、炊き込みごはん、タコ、魚、せんべいなどを積み込み、杉原さん、東条さんと3人で越前市へと向かった。

杉原さんが山崎隆敏さんという反原発活動をしている方の話を聞いた方がいいというのでセッティングしてくれたのだ。

山崎さんの家

1時間ほど車を走らせた。山間の集落に山崎さんのお宅があった。

家に入り、早速4人でいっしょにお昼ご飯を食べた。

持っていった魚を山崎さんは上手にさばいて刺身にしてくれた。

ブリの子は鮮度がよくて本当においしかった。

山崎隆敏さん

そして山崎さんのインタビューをさせてもらった。

町の議員として反原発を訴えて活動していた時の話、チェルノブイリ事故後に視察に行った時の話などを話してくれた。

途中、込み上げてくる思いがあったようで涙を流しながら思いを話してくれた。

このみずやは近所の家が壊されるときに捨てるものだったそうだ。それをもらってきた。明治時代のもの。

インタビューの途中、杉原さんが居眠りしていて、ズルっと椅子から落ちそうになったのには笑った。

3:00。山崎さんの家をあとにした。

杉原さんは車の後ろの席に座ると言った。

そして「あれ、東条さん、私の隣座らへんの?」と言った。後ろは荷物が積んであるので一人しか座れない。

私は「杉原さん、すっかり東条さんが気に入ったんですね。」と言った。

「なんでも食べるし、よく気がつくし、東条さんは見込みある。」と杉原さんは言った。

杉原さんの家に帰り、夕食の支度にかかった。

私は野菜をたくさん入れて雑炊をつくった。けっこうたくさんの量になった。

雑炊を食べながら杉原さんが「戦時中みたいやな。米がちょっとしか入っておらんわ。」と言った。

私はおかしくて笑ってしまった。

そして私は事務仕事。

杉原さんは大好きな東条さんとおしゃべり。

19:30。近くの銭湯に3人で行く。

時々みぞれが混じる冷たい雨が降っていた。

1時間ほどお湯につかり温まる。

杉原さんも気持ちよさそうだった。

帰ってきて3人でおしゃべりしながら豆乳とビールを飲む。

杉原さんはアルコールを飲めないのでみかんを食べていた。

87歳の杉原さん、20代の東条さん、40代の私の3人トリオの共同生活もなかなか心地よい。

22:30。事務仕事をしてから就寝。

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撮影報告 その80 若狭湾の反原発運動

杉原さんの庭のゆず。

みかん。もいで食べた。とてもおいしかった。

2011年12月14日。

8:00。晴天。

杉原さんと二人で朝食。

梅木富士夫さんがやってきた。

高校の数学の先生をされていて退職。

今は福井大学の工学部の非常勤講師をしている。

定年後に一人でも生きていく力が必要だと思い、料理教室に通ったり、混声合唱をやっていたり、体を鍛えるために毎日プールで2キロ泳いでいたり、とても元気な人だ。

梅木さんは杉原さんの畑仕事を手伝っている。

彼曰く、

「僕はドレイ1号や。でも少し抵抗もしているんや。杉原さんはずっと原発に抵抗し続けている根性がすごい。

真似したいと思わんが、ドレイくらいはしようと思って。」

と笑った。

杉原さんの家にて。梅木富士夫さん。長いもを掘っている。

玄関前の山芋を掘っている。

もうひとり女性がやってきて大根干しをしていた。

 

 

服部清子さん

 

梅木さんが私に服部清子さんの絵を見せたいと言ったので、近所で絵を描いている服部さんを一緒に迎えにいった。

服部さんは国語の先生だった。

描いた絵をいくつか見せていただいた。

この近くの湿原を描いた絵が多く、色使いがやわらかかった。

やはりこの湿原を残す運動をしていたそうだ。

お昼ご飯を食べながら。服部清子さん、東条さん、杉原さん。

この日、杉原さんは私が北海道から来たので、原発についてどう思っているか話をする会をセッティングしてくれていた。

詩人、絵をかく人、書道の先生、お坊さん、キリスト教の方、フリージャーナリスト、医者を目指す若者など、様々な人たちが杉原さんの家に集まってくれた。

 

 

みんなで記念撮影。清子さんがトイレにいっていていない。

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撮影報告 その79 日本海の上で ~苫小牧から敦賀へ~

日本海にて。

 

2011年12月13日。

よく寝た。

しかし、どっと体の疲れを感じた。

11月22日からの旅で、今回も濃い日々送っている。

フェリーのお風呂。

風呂に入ったり、また寝たりゆっくり過ごす。

午後、奥本さんから電話が入る。

大阪の昆布の土居さんに連絡してくれて私を紹介してくれた。

電話が通じるので早速、土居さんに電話をかけ、取材・撮影のお願いをした。

快く承諾してくれた。

土居さんとひとしきり話をしてなんだかとっても親しい気持ちになった。

師走の忙しい時期にすいませんと言うと、これは大事なことですからと言ってくれた。

そしてまた私は奥本さんに電話した。

奥本さんも喜んでくれた。

山田農場のあゆみちゃんにも電話をかけた。

土居さんの話の他、これから誰もが少しでも自分で食べ物をつくっていかなくてはいけない時代になるのではないかという話、道南でも昭和30年頃まで、各集落で完結した暮らしをしていた話などをした。

そういう経験をした人の話を聞くこと、それを自分たちが受け継いでいくことも大事なことだと思うとあゆみちゃんは言っていた。

杉原厚子さん。

20:30。無事敦賀港に到着。

これからお世話になる杉原厚子さんのお宅へ。

杉原さんは87歳。教員をしていた人だ。

家に入るなり、明日からの予定を話し出した。

せっかく北海道からくるのだから、色んな人に会ってもらいたいし、色んなところを見てほしいと杉原さんは考えていて、私に敦賀滞在をのばすようにと10日ほど前に電話がかかってきたのだった。

私はせっかくなので3日ほど滞在をのばすことにした。

杉原さんは、原発のこと、戦争のことなど、いつものように話し出した。

この話をキャメラで記録したいので16日にしっかりお話をきくことにした。

そして寝た。

体の疲れがどっとでた。

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