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撮影報告 その87 土居純一さん 大阪・「こんぶ 土居」にて 

こんぶ 土居の4代目・土居純一さん。 2011年12月22日。 朝食。納豆、ご飯、味噌汁、ホウレンソウのおひたし、りんご。 9:00過ぎ。 奥田さんに見送られ、彦根を出発。大阪の「こんぶ土居」を目指す。 こんぶ土居は、原材料を吟味・厳選し、伝統ある大阪の食文化を守り育て、 本物を次代に伝えることが使命だと考えている昆布屋さん。 土居さんは、北海道の南茅部の昆布を使って製品にしている。 この夏、ここの4代目・土居純一さんが大間原発の話を聞きに北海道の山田農場を訪ねてきた。 そして大間へ渡り、奥本さんの案内で大間原発の現場にも行き、六ヶ所も見て大阪に帰ったのだった。 私はその話を山田夫妻と奥本さんから聞いてとても感動した。 誇りと責任をもって仕事をしているから、現場に立ったのだと思った。 関西に行く際にはぜひ土居さんのお話を伺いたいと思い、大間の奥本さんに紹介していただいたのだった。 大阪に入ると車線が増え、車もいっぱいで渋滞。 慣れない都会の運転に緊張しながら、ようやく近くまでたどり着く。

からほり商店街 12:20。 商店街のアーケードにぶちあたり、それ以上進めなくなる。 土居純一さんに電話したら歩いて迎えにきて下さった。 とても素敵な人だった。 いっしょに車に乗っていただき、お店の駐車場に車を入れた。 こんぶ 土居 商店街の中の一つのお店だが、うまそうなものがありそうな店構えだ。 早速店の中に入らせていただき、商品を見させていただいた。 どれもおいしそうなものばかりでワクワクした。 商品の裏の表示をみると見事に添加物類の表記はなかった。 店はそれほど大きくはなく、売り場の裏で全ての商品を製造しているとのことで驚いた。 昆布の選別作業もレジのすぐ後ろでやっている。 「昆布屋は12月が一番忙しいんです。すいませんバタバタしていて。」 と純一さんが言った。 私はとても恐縮して「いえいえ、こちらこそ師走の忙しい時期に来てしまってすいません。」と言った。

純一さん、3代目の土居成吉さん、そのお連れ合いと従業員の方は5人が総出で働いていた。 そんな中、純一さんが仕事を中断して、二階の和室の落ち着いたお部屋で話を聞かせてくれた。 自分たちは昆布があるから店かできて生活ができている。 その昆布をとる生産者の人も大事であること。 何百年も続いている昆布の文化を守ることも自分たちの使命と考えていること。 3代目の成吉さんは、30年以上前から道南の南茅部の浜に通っている。 少しずつ漁師さんたちと信頼関係を築いてきて、 12年ほど前から毎年秋に南茅部の小学校に食育教育の一環で昆布の話をしにいっている。 今では南茅部の高校生が修学旅行でこんぶの土居を訪ねてくるようになったそうだ。 純一さんはこんな話をしてくれた。 昭和30年代から40年代にかけて昆布の機械乾燥が始まり質の低下がみられた。 それを改善してもらいたくて3代目の成吉さんは浜に通い始めた。 当時、昆布を扱う店の者が直接産地に行くことはなかった。 買い付けに来たのかと誤解され、冷たく扱われた。 しかし根気強く通い、メディアにも取り上げられるようになり生産者の人たちの心が動いていった。 という経緯があった。 そして息子の純一さんは9年前から家業を継ぎ、平成16年から毎年昆布漁が解禁になる夏に、 南茅部のへ行って漁師さんと寝食を共にして漁をしに行くのだそうだ。 そうしてお互いの信頼関係をつくっている。 昆布には天然と養殖と促成の3種類がある。 […]

撮影報告 その86 井戸謙一さんのインタビュー決まる

夕食の鍋。

 

2011年12月21日。

午前中から事務仕事。

2006年3月24日、金沢地裁で裁判長の井戸謙一さんが志賀原発2号機の運転差し止めを言い渡した。

井戸さんは現在、彦根で弁護士をしている。

 

井戸さんに連絡を連絡をとって、取材・撮影をさせてもらえることになった。

井戸さんは、ふくしま集団疎開裁判の原告の弁護士もしていると、会津若松の片岡輝美さんからのメールで知った。

またまた高揚してきた。

彦根で少しゆっくりしたいと思っていたが、いつものようにスケジュールが詰まってきた。

夕飯は鍋。今日も近江野菜をたくさんいただいた。

明日はいよいよ大阪だ。

撮影報告 その85 堀口あずささん

 

堀口あずささん。

2011年12月20日。

やっとネット環境があるところに来たので、彦根ではたまった事務仕事をせっせとしている。

奥田さんは近江の冬野菜をたくさん用意してくれていて手料理を食べさせてもらっている。

私はまるで実家のようにくつろいでいる。

たねやのランチ

お昼は彦根城の近く朴さんに食べに行くつもりが休みだったので近くの「たねや」へ。一口おまんじゅう、麦飯、ととろ、近江の野菜、など、とてもおいしかった。

 

ずっと海の近くにいたので車を洗車しに行った。

夕方、甲賀の堀口さんが来てくれた。

彼女は畑で野菜をつくり、オーガニックカフェで働き、時々ケータリングで料理をつくる人。

滋賀県の上映会で色々と手伝ってくれた。

師走の忙しい中インタビューを受けてくれることになった。

夕飯は鍋を食べて、そのまま堀口さんも奥田さんの家に泊まっていくことになった。

私はこの日をとても楽しみにしていた。堀口さんの料理はとてもおいしいからだ。

堀口さんの野菜。

 

堀口さんは木の箱いっぱいに自分の畑でとれた野菜やきのこを持ってきてくれた。

奥田さんも手伝って夕食の支度が始まった。

私はここから撮影させてもらった。

奥田さんが堀口さんに指導をあおぎながら下準備をする姿がかわいらしかった。

堀口さんが料理をする姿は美しかった。

 

豪華な食卓。野菜がおいしかったー!

 

白菜、ネギ、大根、セルべス、ひらたけ、しいたけ、ちじみ菜、出汁は昆布とホタテ。

それから天然のエビを軽くフライパンで焼いて、鍋にいれるのと、レアーで食べる用と。

このレアーのエビが抜群においしかった。

もちきんちゃくの代わりに、いなきびにイモ・たまねぎ・コーンを入れて出しをいれて炊いたものを油揚げにつめたものもとてもおいしかった。

セルべスもスライスして焼き、ごま油と塩を振った。

このいもを初めて食べた。

とても食感がよく美味しかった。

それからぬかニシンも焼いた。

奥田さんが用意してくれた滋賀の酒、富田酒造・七翻槍の生酒をいただきながら、至福の時だった。

左から堀口さん、奥田さん。

 

お鍋がほんとうにおいしかった。

薬味がゆずの刻んだものと、しぼったもの、ネギ、みそ、塩などあり、色んな味を楽しんだ。

そして食べながらの話の続きでインタビューを始めた。

3.11は堀口さんにとって衝撃だった。

夏には福島の子供たちのサマーキャンプの手伝いに長野に行った。

[…]

撮影報告 その84 敦賀から彦根へ

 

朝市で買ってきた野菜。

2011年12月18日。

7:00。冷たい雨が降っていた。

太田さんと松原さんは朝市に行くと言っていたので私も一緒に行こうと思っていたが、トイレへ行ってまた眠ることにした。

 

太田さんと記念撮影。

 

8:30。太田さんたちは朝市から帰ってきていた。

朝食をいただく。

パンとコーヒー。

太田さんにお礼を言う。

定宿にしてくださいと言ってくれた。

太田さんから鶴賀の歴史を聞いてまた来て行ってみたいところが増えたし、ぜひたま歴史の話を聞きに来たいと思った。

 

敦賀。比気神社の前。

9:30。私は車に荷物を積み込み、長浜に向けて出発。

先月、MO通信という滋賀県の雑誌の辻村琴美さんから連絡があり、取材を申し込まれたので敦賀から彦根に行く途中の長浜で取材を受けることになった。

琵琶湖。

11:00。

取材場所のホテルに到着。

太田さんの家の鍵をポケットに入れてきてしまったことに気が付く。

太田さんに電話。年末か年始に敦賀に来る時でいいですよと言われたが、念のため送りますと言って電話を切った。

左から、ライターの山崎さん、辻村琴美さん、キャメラマンの辻村耕司さん。

小奇麗なホテルの中に入っている2階の和食屋さんの一室が用意されていた。

インタビュアーは琴美さん、キャメラマンはだんなさん、そしてライターは山崎さんという女性だった。

琴美さんとは、大津の友の会の上映会の打ち合わせの時に初めてお会いしてから、ちょこちょこ上映会の時などに顔は合わせていた。だんなさんとは、能登川の上映化の打ち上げで初めてお会いした。

そんなこんなで、色んな話をした。

今取材撮影している映画のことを中心に話をした。

あらかたインタビューが終わり、日本料理のコースを4人でいただきながらまた話に花が咲いた。

とてもおいしかった。

そして外に出て琵琶湖をバックに写真を撮影された。キャメラを持ってくださいというので、私も撮影をしながら、写真で撮影された。

14:30。

終了して私は彦根へ向かった。

あー終わったー!どっと疲れが出た。

彦根まであと一息だ。

17:00。

奥田さんの家に到着。

奥田さんは元気そうだった。

野菜をたくさん用意して、夕食を用意していてくれた。

まず風呂にゆっくり入らせてもらった。

洗濯もさせてもらった。

[…]

撮影報告 その83 番外編 太田さんから聞いた話 メモ

太田さんから聞いたお話色々。

北前船、北国船で、敦賀の港からから東北、北海道へモノが行き来していた。

敦賀は商人の町だった。

江戸の初期、年間50万表の米が敦賀に入った。

ここから、大阪、京都へと米が流れていった。

敦賀は少し前まで人口3万人だった。

400年もの間ずっと3万人の町だった。

そしてこの町には神輿が30もある。

この規模の町で神輿が30というのは非常に多いそうだ。

 

戦国時代、この辺りには千人以上も大名がいた。

その米は敦賀からみんな流れていったので、だまっていても売れたので、商人の愛想が悪い。

それは今も同じだそうだ。

お花見はどういうところから始まったか。

昔中国で梅を鑑賞していた。

中国の人は梅の花の中に神がいると考えた。

そこで秋の実りをお願いすることを始めた。

そのためにお供えをした。

それを食べたことからお花見が始まったそうだ。

 

福井県の県鳥・ツグミは昭和30年第頃まで、毎年冬になるとシベリアからやってきた。

敦賀は空が真っ黒になるくらい大群できていた。

今は一匹もこなくなった。

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