太田和子さん。今も体調がいい時には原電の前に立っている。
これれと下の写真は杉原さんの家の食堂に張ってある。
2011年12月16日。
8:30。起床。冷たい雨が降っている。
朝ごはん。
私はまた野菜をたくさん入れて雑炊をつくった。
杉原さんと東条さんと3人で朝食。
10:00。杉原さんのインタビュー。
東条さんも自分のビデオで撮影。
戦争の話、小学校の先生時代の話、原発の話などお聞きする。
敦賀は昔、北前船、北国船の港で、交易の中心地としてとても栄えていた。
敦賀からウラジオストックの航路があり、敦賀の人は下駄をはいてウラジオストックに行ったそうだ。
杉原さんが小学校の時、先生が「皇運扶翼の為に日本人は生まれてきた」言った。
その意味がわからなかった杉原さんは先生に質問した。
「アメリカ人は何の為に生まれてきたのですか?」と。
「そんなこと考えんでもいい。」とひどく怒鳴られたそうだ。
それ以来、疑問に思うことを先生には質問しなくなったそうだ。
そんな杉原さんは小学校の教師になった。そして敗戦を迎えた。
今までそして一度教師をやめた。
今まで子どもたちに何を教えてきたのかと悩んだそうだ。
そしてまた教師に戻った。
杉原さんは3人の兄がいた。幸いみんな帰ってきた。
一番上の年の離れたお兄さんは、復員してきてから暴力をふるうようになりとても怖かったそうだ。
その頃はその理由がわからなかったが、もうそのお兄さんは亡くなってしまったが、最近その理由がわかったそうだ。
きっと戦地で人を殺し、悲惨な状況の中にいて心に傷を負っていたのだと。
「その頃わかってあげられなくてかわいそうなことしたなあ。戦争はほんま、嫌ですわ。」
とぽつりと言った。
杉原さんは松原小学校で先生をしていた。
日本が敗戦して、敦賀半島には僻地に四つ、分校があった。
若い時に今もんじゅが建っている白木分校に何か月が教えにいったことがあるそうだ。
その頃の白木は交通の便が悪く、病人が出ると戸板に乗せて船で美浜まで運ばなければいけなかったという。
しかし海がしけていたらそれもままならなかった。
陸路はないに等しい状態だったそうだ。
「よう覚えとらんけど、イカをたくさん食べたなあ。おいしかったなあ。」
と杉原さんは言った。
現在、白木には15軒ほどの民家がある。
甲状腺癌になる人が多いと白木で介護をしていた人から聞いたそうだ。
「戦争中と今はおんなじや。政府は嘘ばっかりいっとる。」と杉原さんは何度も言った。
そしてそのことと、地球を汚したくないという思いが杉原さんの反原発の原点であることが分かった。
16:00。太田和子さんのお宅へ向かう。
午後、太田和子さんのお宅へ伺う。
東条さんもいっしょに行きたいというのでいっしょに行く。
太田さんの家。
6月に福井の玉井さんに太田さんのお宅に連れてきていただいてインタビューをさせてもらった。
その途中、彼女が具合が悪くなり中断したので、今回また続きを聞こうと太田さんに連絡をした。
すると彼女は、「具合が悪くなるので原発の話はしたくありません。
でもせっかくいらっしゃるのならウチに泊まって下さい。」と言った。
私が「じゃあ、敦賀の自然の話を聞かせてください。」と言ったら、「それもすべて原発につながるので話したくありません。」と言った。「じゃあ、それ以外の話をしましょう。遊びに行きます。」
と私は言って電話を切ったのだった。
太田さんの家に着き、薪ストーブが燃える温かい部屋に通された。
太田さんは元気そうだった。
太田さんの別棟の家に下宿している松原さんという高校の英語の先生をしている女性がコーヒーとクッキーをだしてくれた。
そして東条さんも自己紹介をして、お茶を飲みながら3人でおしゃべりをはじめた。
三方の増井さんから太田さんに連絡があって、増井さんがぜひ泊りに来てくださいと言っていましたよとのこと。
とても増井さんの家は海が見える素敵な家とのこと。
がぜん泊りに行きたくなった。
太田和子さん。
太田さんが、私の今回の旅はどんなものかを尋ねたので、大間の漁師さんの話、函館での大間原発の裁判の話、これから行く滋賀、大阪、名古屋の話をした。
原発の話はしたくないと言っていた太田さんだったが、話は自然に原発のことになった。
「1965年に私は若狭で一人で反原発運動を始めた。3.11後、もの言えぬ植物や動物のかわりに一人で反原発運動をして終わろうと決めた。」と言った。重い言葉だった。
そして太田さんは私に言った。
「明日、午後から天気になるそうです。
土曜日で会社は休みだけどあなたが来たから原電の前に立つから、それを撮ったらどうですか。」と。私は耳を疑った。
太田さんは日本原子力発電敦賀地区本部の入り口に、「埋立てないで阿弥陀身の浜」と大きく書いた紙をもち、じっと立つという抗議行動を一人でずっと続けている人だ。一人で何年も前から体の具合の悪い日以外、今も立っている。
原発の話は空しくなるだけでしたくない、ビデオも写真もやめてくださいと私に言っていた太田さんが、こんなことを言ってくれるなんて私は思ってもみなかった。
今回私は、ただ太田さんの家に泊めていただいて、おしゃべりするだけで十分だと思っていた。
太田さんと原発の話抜きでも、もっと話をしたいと私は思っていたから今回敦賀にきたのだった。
私はとてもとても嬉しくて、もちろん撮影させてくださいと即答した。
言葉でなくてその行動を私に見せようと彼女は思ったのだと思う。
それをしっかり受け止めて私は撮影しようと強く思った。
そして海で泳ぐという話から、もんじゅのある白木という集落の人の話になった。
交通の便の悪いところでみんな魚を獲って暮らしていた。
白木の人たちが獲った魚を敦賀の仲買人が買いたたき、大儲けをしていた。それが300年も続いていたのだった。
そしてもんじゅがこの地に立った。
この白木の人たちの怨念でもんじゅが建ったと思うと太田さんは言った。
戦争の話も。私の土台は軍国主義。
そして昭和20年、15歳の時、価値観がひっくり返った。
昨日までの正義が最低のものになり、アメリカのデモクラシーが最高のものになった。
ぐしゃぐしゃにした糸の塊を頭の中に押し込められた感じで今もほどけてないのだとも言った。
1981年、敦賀原発で放射能を垂れ流しするという事故があった。
原発は生コンを毎日使うので、業者が毎日運び込んでいる。
友人の夫がそのダンプの運転手をしていた。
事故の時も生コンを原発に運び込み、出る時に車の放射能測定でピーピー鳴っていた。
その時タオルで車をふいただけだった。
そしてそのダンプは普通に市内を走っていたという。
また福井の県鳥・ツグミは昭和30年くらいまで、冬になるとシベリアから渡ってきた。
空が真っ黒になるほどだった。
それが今では一匹も来なくなったそうだ。太田さんは色んな話をしてくれた。
実に興味深かった。
東条さんは杉原さんの家に帰っていった。
彼は明日もまた私の撮影についてきたいというのでいいよと言った。
松原さんが別棟の私が寝る部屋に案内してくれた。
木造の味のある建物。
部屋にはストーブもあり、フカフカの布団だった。
とても落ち着く部屋だった。
原発関係の資料もたくさんあって、好きなものを持って帰っていいと言ってくれた。
そして太田さんと松原さんと3人で夕食。
ワインが出てきたので、車に常備している山田農場のチーズとこなひき小屋のパンを出した。
太田さんがチーズもパンもおいしいといってくれて嬉しかった。
そしておでんとごはんをごちそうになった。
22:00頃まで太田さんと猫の話や敦賀の色んな話をしてとても楽しかった。
私は大間の話や会津若松の話もした。太田さんは薪をくべながら静かにこう言った。
「田代さん、人間はどうしようもないのよ、失ったものは二度と帰ってこないの、もう遅すぎるのよ。」
あまりにも重い太田さんの言葉に私は何も言うことはできなかった。
でも私は思った。
太田さんが人間は捨てたもんじゃないと思える映画を私はつくりたいと。
「明日もウチに泊まっていっていいのよ。」と太田さんは言った。
私は嬉しかった。
とてもコーフンした晩だった。
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