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撮影報告 その92 三方・敦賀 

増井さんの家からの眺め。

増井さんの家からの眺め。 2011年12月29日。 朝ゆっくり起床。 天気も上々。 窓の外は雪に覆われた日本の農村の風景だった。

薪ストーブの前で朝ごはんをいただく。 ご飯、味噌汁、焼き魚、おでん。 食後にコーヒーをいただきながらおしゃべり。 台所。 アフガニスタンのガラス。 居間の窓から。向こうが母屋。 廊下のどんつきの窓から。 午後、私に会わせたい人がいるということで、同じ集落の寺井勝治さん・久子さんのお宅へ行く。 寺井さんの家はこの集落の中でも一番古い家で、築150年以上。米、養蚕、酪農などをやってきた。 寺井勝治さん 明治時代のアメリカ製の時計。いい音で時を知らせる。 寺井家に300年以上前からあるかんざし。今は耳かきとして勝治さんが毎日愛用している。 家にたくさんの古文書が残っている。 寺井さんはこのあたりの歴史も研究したり、古文書を読む会を開いたりしている。 増井貴美子さん。 昔、この集落は12基の水車があり、稲わらを打ったりしていた。 今、水車を復活させて小水力発電ができないか、増井さんと二人で画策している。 寺井久子さん 妻の久子さんも昔は蚕を飼って糸をつむいで、着る服をみんなつくったと話してくれた。 左から増井さん、久子さん、勝治さん。 そして干し柿をお土産にたくさんくれた。 お二人からこのあたりの昔の暮らしの話をうかがい、大変面白かった。 久子さんがつくった干し柿。 増井さんの家に戻ると敦賀の太田さんから電話がきた。 私は今晩遅く、敦賀から出航する船に乗って北海道に帰る。 私の晩御飯を心配して、ウチで晩御飯を食べていきなさいということだった。 ということで、晩御飯は太田さんの家で食べることになった。 「田代さんが来てくれて刺激的な2日間だったわ。 とってもいい時間を過ごせた。 亡くなった夫の話をしたのは初めてだったの。」 と彼女は言った。 私こそ、泊めてもらって食べさせてもらってそして色んな話ができて本当に楽しかった。 私も大いに刺激を受けた。 また泊りにきたいと思った。今度はインタビューをさせてもらいたいなあと。 18:00。 増井さんと別れ、敦賀の太田さんの家に向かって出発。雨が降っていた。 4月から「空想の森」で縁のできた人を訪ね、話を聞いてきた。そしてその人たちが私に「この人に会いに行きなさい」と人を紹介してくれた。 そしてまた会いにいった先の人から、人を紹介されたりして今まで100人以上の方々とお会いして話をしてきた。 とても嬉しいことでもあるが同時に身が引き締まる思いでもある。 太田さん。火鉢で暖をとりながら。 19:00。太田さんの家に到着。 下宿している松原さんは実家に戻っていていなかった。 彼女がつくったおせちのおかず、干物、ご飯をいただいた。 私は彦根の井戸さんのこと、小浜での会議の話を太田さんにひとしきりした。 太田さんももんじゅが出来る前、デモをしたこと、映画の上映会をしたことを話してくれた。 […]

撮影報告 その91 若狭湾の反原発運動 彦根から三方へ

 

2011年12月28日。

ゆっくり起床。

天気は晴れ。

荷物をまとめて車につみ込む。

そして奥田さんと少し早いお昼ご飯を食べに彦根城の近くの「たねや」へ行く。

麦飯とじねんじょのとろろ、近江牛の肉じゃがなどのセットをごちそうになる。

今回もまた奥田さんには大変お世話になった。

そして私は彦根を後にして福井県三方の増井貴美子さんのお宅を目指して車を走らせた。

福井県三方・上野の集落。

三十三間山のふもとの40軒ほどの集落に増井さんのお宅はあった。

母屋を通って、裏の家へ通された。

木と珪藻土の壁。薪ストーブが燃えていた。

とても素敵な家だった。お茶を飲みながらひとしきり話をした。

後ろの山が三十三間山。

会議に参加するため、早めの晩御飯を食べた。

おでん、ご飯、味噌汁。

薪ストーブ。

18:00。大飯原発3、4号機稼働を阻止するための若狭の会議に参加するため、美浜の石井さんにピックアップしてもらい、小浜へ向かった。

12月14日、敦賀の杉原厚子さんに勧められ、私はこの第一回目の会議に参加した。

その時に増井さんと出会った。

そして第2回目の会議の今晩、私は増井さんの家に泊まらせてもらうことになり、いっしょに会議に参加することになったのだった。

 

大飯原発の再稼働を阻止するために、大飯町と小浜にチラシを配ろうということになり、そのたたき台を、若い世代の京都の平井さんがつくってくることになっていた。

若い世代の人は、原発反対、危険性のアピールだけでは人に伝わらないから、どういう未来に暮らしたのかを柔らかい言葉でアピールしていくほうがいいのではと主張していた。

若狭でずっと反対運動をしていた哲演さん、松下さんたちも若い人の感性を活かしてチラシをつくってみようという考えだった。

たたき台のチラシが配られた。

それを見て各人思ったことをみんなに言った。

私も言いたいことがあった。

誰も言わなかったら言おうと思っていたが、増井さんが私の思っていたこととほぼ同じことを言っていたので私は発言しなかった。

増井さんも同じようなことを思ったのかと少し嬉しくなった。

一気に親しみがわいた。

このチラシは未来のこととも大事だが、今、大飯原発の3,4号機を稼働させようという動きを阻止しなくてはいけないという緊急性もある。そして3.11後、福島第一原発の事故を目の当たりにし、15機も原発が密集する若狭湾周辺で暮らす自分たちが、これからどう暮らしていきたいのかということを問いかけることから始めた方がいいのではないか。と。

会議のもう一つの議題は、原発を止めた後の政策提案。美浜町の松下さんは、原発を止めた後の美浜町がその後もやっていけるように、雇用などの問題を具体的に提案をしようとしている。

これは、環境エネルギー研究所へ美浜町の政策提案を依頼している。

来年5月中に町に提出予定のところまでこぎつけている。

美浜町は、木材など豊富な自然の資源がある。

これを活用して地域で企業して雇用を生み出し循環していけるようにと考えている。

今ある美浜原発の核のゴミは美浜町で乾式の貯蔵という形で引き取るという苦渋の決断をして、その上で、自分たちで自立していこうと。

そしてこの試みを皮切りに、若狭湾の原発立地町もそれぞれ政策提案をして原発を止めて暮らしていける町になっていったらと考えている。

とても具体的で現実的な提案だった。

松下さんがこれまで長い間反原発運動をしてきた中での答えがこれなのだと思った。

22:00会議は終わった。そして、また石井さんの車にのせてもらう。

道中、チラシのたたき台のことで3人でひとしきり話した。

 

そして増井さんの家に帰宅。

お風呂に入り、ビールを飲みながら薪ストーブの前でおしゃべり。

[…]

撮影報告 その90 奥田好香さん

奥田好香さん。

 

2011年12月27日。

しめった雪が降っていた。

気温はそれほど低くはない。

午後、奥田さんと朴にケーキを食べに行く。

チーズケーキと紅玉とチャイをいただく。

店のたたずまいもなかなかいいのだ。

今日の製造は終わっていた。湯葉が干されていた。

そして湯葉屋さんへ。

彦根に来るとここの湯葉を食べるのが楽しみなのだ。

お土産の湯葉も買った。

最後の方にとれる甘湯葉。

帰ってきて奥田さんのインタビュー。

3.11から今の心境を語ってくれた。

いつも話をしているので改めてインタビューするというのは変な感じもしたが、彼女が撮って欲しいと言ってくれたので私は嬉しかった。

2年前のカフェテリア結での上映会で出会ってから、本当に濃密な時間を共に過ごしてきた。

こんな出会いがあり、その後の濃い付き合いがあるなんて思ってもいなかった。

 

晩御飯はしょうがとにんにくをたっぷりと入れた白菜と豚肉の鍋。

早いもので、今晩が奥田さんの家での最後の晩餐だ。

地ビールを用意してくれていて、ビールを飲みながら、湯葉と鍋を楽しんだ。

彦根滞在中は奥田さんの家でリラックスして体を休ませてもらった。

明日は再び福井へ移動だ。

[…]

撮影報告 その89 ブルーベリーフィールズ紀伊國屋にて

 

2011年12月26日。

雪が降っていた。

長靴をはいて、奥田さんとブルーベリーフィールズ紀伊國屋にランチへ。

南へ下ると雪もなく、お日様が顔を出していた。

ブルーベリーフィールズ紀伊國屋 この日が今年最後の営業日だった。

ブルーベリーフィールズ紀伊國屋は山の上にある。

ここは少し雪がつもっていた。

私はランチでワインを飲みたかったので、奥田さんに運転してもらうことにした。

雪の琵琶湖も素晴らしかった。

この風景を眺めながらのランチは、本当にぜいたくだと思う。

雲がかかったり、晴れたり、雪が降ったり…。

目まぐるしく天候が変わっていく。

そんな変化も楽しみながら、おいしくランチをいただいた。

前菜。

食後のフレッシュハーブティーがこれまた何ともいえずおいしかった。

いのちのスープ。

14:00。岩田康子さんがやってきた。(ブルーベリーフィールズ紀伊國屋の社長)

そして3人で話をした。

左から、岩田康子さん、私、奥田好香さん。

彼女は3.11以降、自分に何かできないかいつも考え行動している。

今、着物を集めて被災地に送り、それを手仕事でリフォームしてもらい、販売していけるようにならないかと考えワクワクしていた。

この話を私たちにしたかったのだろう、彼女は一気に話をした。

想い出のある着物を手放す。

それを被災地の女性たちが、違う形のものにリフォームする。

それを大きな店ではなく、人から人へ販売する。そうすることで、被災地の人たちの小さな喜びや希望につながるように、そして私たちも被災地の人たちに想いを馳せられるように。

そんなことを彼女は考えてワクワクしているようだ。

ブルーベリー。

2時間ほど話し、「続きは今度田代さんが滋賀に来た時にね。」と言って別れた。

 

彦根に帰る途中、大中の愛菜館に寄る。今までいいお天気だったのにここは吹雪だった。

野菜を買う。

根菜類は北海道に持って帰られるからと、ゴボウやきんとき人参などを奥田さんが買ってくれた。

 

12月 27th, 2011 | Category: 新作撮影報告 New ! | Leave a comment

撮影報告 その88 井戸謙一さん 彦根にて

井戸謙一さん。

 

2011年12月25日。

朝、窓の外は雪景色だった。

今日は午後からいよいよ井戸さんのインタビューだ。

初めてお会いする方にお話を聞くというのは、心の準備がいる。

何をどうお聞きするか。

彦根城

 

 

昨日は久しぶりに少しゆっくり過ごした日であったが、急きょ取り寄せた「原発訴訟」(海渡雄一著・岩波新書)、「脱原発」(河合弘之、大下英治著・青志社)を読んだり、頭の中はいつも明日の井戸さんへの質問を考え、ノートに書いたりシュミレーションしたりしていた。

 

昼、機材を車に運び込み、撮影の準備を整え、彦根城近くの「朴」にランチを食べに行く。

風強し。

お堀の水が波打っていた。

朴のランチは相変わらずおいしかった。

 

 

12:50。井戸さんが勤める法律事務所へ向かう。

井戸さんは笑顔で迎えてくれた。

私は一気に親しみがわいた。

日曜日の法律事務所には井戸さんしかいなかった。

キャメラをセッティングしながら、今回の撮影の動機などを話し、早速撮影を開始。私は井戸さんにお聞きしたいことがたくさんあった。

 

2011年3月11日、井戸さんは大阪高裁で裁判官をしていた時、地震にあった。建物の13階にいたので大きな揺れだった。

その時一番に女川原発を心配したという。

その後福島第一原発の事故を知り、これからどう生きていくか、しっかり考えなくてはと、家族全員に電話をしたという。

井戸さんにとってそれほどのことだったのだ。

 

井戸さんは東京大学文学部に在籍しながら法律の勉強をして司法試験に合格。

元々ジャーナリズムに興味があり、弁護士志望だった。

しかし修習生の時に最後に判断を下せる裁判官になろうと決めた。

それから裁判官を30年以上勤めた。

2002年(平成14年)金沢地裁へ移動になった。

その時から志賀原発2号機の運転差し止め裁判を担当することがわかっていた。

1999年(平成11年)にその裁判が始まっていた。

金沢地裁は裁判官の人数が少ない。

金沢への移動は、その案件を引き継ぐことになると初めからわかっていた。

金沢地裁はもう一つ大きな事件を抱えていた。

自衛隊・小松基地の騒音問題だ。

人数の少ない裁判所で大きな事件を2つ抱えていた裁判所だった。

 

今までの原発裁判では、原告が危険性を立証すべきという枠組みで考えられてきた。

それをこの裁判で井戸さんは、被告が安全であることを立証するべきというスタンスをとった。

 

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