中央の建物が大間原発。
2011年5月2日(月)~5月5日(木)
◇大間原発が建設されている本州最北端の町へ行く◇
朝、大間原発の会社・電源開発(Jパワー)に電話。
取材・撮影を申し込む。
どんな目的で映画をつくるのかがわからないからという理由で断られた。
いくら説明しても話が噛み合わず平行線だったのであきらめた。
いよいよ本州の最北端の大間へ。
海がキラキラしていた。
子供の頃夏休みに大湊に遊びに来たとき、叔父に連れられこの海を見た。
仏ヶ浦のきれいな海と切り立った独特の岩は今でも忘れられない。
大間の町中で奥本征雄さんと待ち合わせ、まずは昼ご飯を一緒に食べた。
昆布が練りこまれたラーメンがうまかった。
奥本さんは大間で生まれ育ち、郵便局に勤務し、5年前に定年退職をした。
大間原発を当初から反対していて、原告になり、今度の5月19日の裁判では意見陳述をすることになっている。
3日間びっちり朝から晩まで奥本さんに大間を案内してもらった。
原発の話はもちろんだが、他にも色々な話をした。
毎晩飲みながら話は尽きなかった。
私はすっかり奥本さんが大好きになった。
奥本さんは郵便局員として毎日町の人と接してきた。
小さな町では郵便局と町の人の関係は濃密だ。
町の人の日々の細やかな情報は郵便局の人が一番知っている。
人々が助け合い支えあいながら暮らしてきた町に原発の誘致問題が持ち上がってからは、
その関係が大きく変わり、人の絆が切り裂かれていった。
奥本さんは言う。
放射能はもちろん恐ろしいが、今まで築いてきた人と人との関係が原発賛成か反対でズタズタにされたこと、
これが何よりの悲劇だと。
奥本さんは意見陳述でもこのことを強く訴えている。
前に沖縄の名護に行った時も民宿を経営する照屋林一さんが同じことを言っていた。
原発、基地問題など、根っこはどれも同じ問題を抱えている。
なぜこんな悲劇が美しい日本の小さな町ばかりに起こるのか。
思ったことを思ったように言えない、表現できない社会が存在している。
こんな社会の中で人はまともな精神で生きていけるのだろうか。
1976年に商工会が大間原発の誘致をはじめてから、大間のほとんどの人は原発賛成の立場だ。
表だって反対を表明している人は数人しかいないのが現状だ。
しかし心から原発に賛成をしている人はどのくらいいるだろうか、と奥本さんは言う。
特に漁師は、息子・孫に代が変わり主力で漁をしている。
原発で漁ができなくなることに危機感を感じている若い漁師も出てきたという。
最近、そのような若い漁師が奥本さんに話を聞きたいと言ってきているという。
大間は海しかない。海で暮らしていくしかないのに。と奥本さんは言った。
大間町は人口6千人ほど。
原発の周囲3キロ以内にこの6千人の人たちが暮らしている。
原発建設地のすぐ近くの海沿いに漁港そして民家が並んでいる。
現場に立ち、この風景を目の当たりにした。
丘の上から、防波堤の上からなど、様々な場所から原発を眺めた。
なんてこの海と町にそぐわないのだろうと思いながら。
原発工事の作業員の宿舎
町には原発を当て込んだ大型店舗が立ち並び、原発工事の作業員の宿舎があちこちに建っている。
不公平にならないよう、隣町にも宿舎が建っている。
3月11日以来工事は中止されている。
現在全体の38パーセントの工事の進み具合で、まだ燃料棒は入っていない。
3千人いた工事作業員はどこかに行ってしまい町は閑散としている。
旅館業や商売をしている人たちからは、早く工事を再開して欲しいという声が上がっている。
これが現実だ。
◇ある漁師さんの話◇
奥本さんがある漁師さんの家に連れて行ってくれた。
現在87歳。現役の漁師でお連れ合いと二人暮らし。
息子も漁師をしている。
大間町の町議も何期か務めたことのある人だ。その町議時代、たった一人原発反対を訴えてきた。
突然の訪問にも彼は快く話を聞かせてくれた。
「今日も病院の待合室で原発はいらないってしゃべってきた」と第一声で彼は言った。
海のおかげで自分たちはご飯を食べ、子供を育ててきた。
その海を子子孫孫に残していかねばならない。
何度も何度も繰り返して彼は言った。
そして話も終わりの頃、毎朝奥さんにありがとうと感謝していると言った。
私が、「お母さん、いいだんなさんで幸せですねえー」と思わず言うと、奥さんは「んだ。幸せだー」と言った。
このご夫婦の語り口を聞いていたら、同じように話していた亡くなった祖母を思い出した。
◇あさこはうす◇
大間原発の敷地のど真ん中にある「あさこはうす」にも連れて行ってもらう。
原発の敷地は農地解放で解放された土地で地権者が大勢いた。それを電源開発が買収していったのだが、
最後まで土地を売らなかった人がいた。それが故・熊谷あさ子さんだ。
「海と土地を大事にすれば、どんなことがあっても生きていける」というのが漁師の娘として生まれたあさ子さんの口癖だったという。
どんなにお金をつまれようとも頑として土地は売らなかった。
小さな町でたった一人原発反対を貫いた。
どんなことがあっても畑を耕し続けていたという。
1976年、大間町商工会が原発の環境調査を請願。
1984年、大間町議会が原発誘致を決定。
2003年、電源開発はあさ子さんの土地を買収できずに、炉心の位置を200メートル動かした。
2004年、あさ子さんは原発の炉心から250メートルしか離れていない自分の土地にログハウスを建てた。
2005年、住民票を移し、畑を耕したり家族で集まったりした。
2006年5月19日、あさ子さんは病気のため亡くなった。
そして今、あさ子さんの娘・小笠原厚子さんが母の意思を継いで大間原発に反対をしている。
このような道と通ってあさこはうすにいく。正面に見えるのが原子炉建屋。
国道からあさこはうすへ入る入り口には24時間体制の監視小屋がある。
その前を通って、くねくねと曲がった道を1キロほど行く。
この道は電源開発がつくった道だ。
両側には有刺鉄線の柵。
見通しが悪い。
なんでも前は見通しが良くて海がきれいに見えるところだったのに原発の工事が始まってから盛り土されたそうだ。
あさこはうすまでもうすぐというところで、原子炉の建屋が大きく見える場所がある。
巨大な建物だ。
あさこはうす
あさこはうすに着いて車を降りたら、後ろから軽トラがやってきた。
降りて来たのは男性と女性。変わった格好をした男性に、何だか見たことのある人だなと思っていたら、
彦根上映会の時に会って話をしたアコちゃんだった。
彦根の花しょうぶ通り商店街の村川商店の息子さんで、世界平和と反原発を訴え、
紙芝居、援農をしながら全国を自転車でめぐっている人だった。
私が彦根に行った時ちょうど実家に帰ってきていて、ひとしきり話をしたことがあった。
あさこはうすでの偶然の再開に私は驚き興奮した。
そしてアコちゃんに新たに撮影を始めた経緯をざっと説明した。
今度の6月に滋賀の上映会に行く時に、アコちゃんにもインタビューをお願いしようと思っていた矢先だった。
彼は上関原発、名古屋の反原発デモ、六ヶ所などを歩いてきて今、あさこはうすに到着したという。
これからしばらく青森に滞在し、六ヶ所などで援農をするという。
5月21日の大マグロックはもちろん参加するとのことだった。
あさこはうすの前でアコちゃんがひとしきり思いを話したのを撮らせてもらった。
この畑の向こうが小川を挟んでもう原発敷地だ
そうこうしているうちにまた車がやってきた。
あさ子さんの娘さんの小笠原厚子さんだった。
厚子さんは私たちを歓待してくれた。
まず、庭や畑を案内してくれた。
近くに小川も流れていた。
建物の奥の方にも大きめの畑があり、その向こうもあさ子さんの土地で約1ヘクタールほどあるそうだ。
とてもいいところだった。
そしてあさこはうすの中に入り、あさ子さんの写真の前に立ちお参りをした。
厚子さんは母・あさ子さんのこと、その想いを継いでこの大間原発をつくらせないこと、
原発を少しずつ減らしていきたいことなどを涙ながらに話してくれた。
厚子さんは40歳になって大間に帰ってきてから、あさ子さんの反対運動を本格的に一緒にやるようになったそうだ。
あさ子さんは自分が戦っている原発問題について子供たちに特に何も言わなかったという。
ただ、子供たちが自分のせいで差別を受けないように動いていたそうだ。
函館でも大間原発の反対運動の組織ができて、函館の人との行き来がはじまった。
大場さん、竹田さん、野村さんなどはその頃からあさ子さんを知っている。
原発の炉心から250メートルのところに人が住んでいて、人が行き来していることが何より大事なこと。
と厚子さんは言う。人が住み、畑があり、色んな人が出入りする。
郵便の配達だって毎日来る。
そんな場所なのだということを厚子さんは体を張って証明している。
これほどの反対の仕方があるだろうか。
だからどんどんお手紙を書いてほしい、そしてここに訪ねて来てほしいと厚子さんは言う。
あさ子さんの命日が5月19日。この次開かれる第2回口頭弁論が同じ日だ。
「母は放射能のことなど知識のない人だったけれど、本能で原発は危険だとわかっていたのだと思う。
まだ、原子炉に放射能が入っていない。
私はこの裁判に負ける気がしない。」と厚子さんは言った。
小さな漁村・大間で原発反対を貫き、土地を守り続けてきたあさ子さん。
彼女の精神が、意志が今も人の心を動かし続けているのだと感じた。
栗の木公園へと行く道
そしてあさこはうすを後にし、奥本さんが次に連れて行ってくれたのは、栗の木公園。
原発のすぐそばで、みんなで少しずつ買った300坪ほどの土地だった。
原発の入り口のすぐ脇から細い道を入っていく。
栗の木を植えて、毎年みんなで栗ひろいをして栗ご飯を炊いているなど、奥本さんが説明してくれているところを撮影中に、
向こうから監視員の若いお兄さんがやってきて「ここから出て行ってください。」と私たちに言った。
奥本さんは「ここは私たちの土地ですよ。」と穏やかに言うと、監視員は怪訝そうな顔をして去っていった。
しばらくしてまた撮影中に今度は少し年上の監視員の男性がやってきた。
「さっきは失礼なことを言ってすいませんでした。」と謝った。
監視員などは地元の若い人を雇っていて、この土地がどういう土地なのか、きちんと説明していないのだろうということだった。
大間原発工事現場入り口のあたりから。すでに送電線が立っている。
実際に現場に身をおいてみると、肌で感じることがたくさんあった。
原発の敷地入り口には常に監視員がいる。その何ともいえない威圧感と窮屈さ。
原発の建物、送電線は美しい海や山の中ではやはり異様だ。
町の中で原発の話ははばかられる感じがしたり…。
鉄塔の下が工事現場入口。
奥本さんは一体どんな思いで今まで反対運動をしてきたのだろう。
毎日奥本さんとは話をしていたが、インタビュー撮影を改めてさせてもらった。
話を聞くと、反原発の活動の中で本当に色々なことがあった。
しかし一貫して反対を貫いてきた奥本さんは実にいい顔をしている。
そこらの俳優さんなんかよりかっこいいくらいだ。思うことを思うようにやってきた清々しさを感じる。
奥本さんに出会えて本当によかった。奥本さんだけじゃない。
訴訟の会の竹田さん、野村さん、大場さん、それに厚子さん、そして弁護団の河合さん、森越さんたちとも出会えてよかった。
まだまだ今も危機的状況なのだけど、生きていればいいこともあるのだ。
そして希望もあるのだ。
裁判に勝ってみんなで勝利の美酒で乾杯したい。
大間から午後の便の船で函館に帰る日。
午前中にあさこはうすへいく途中の道から三脚を立てて原子炉を撮影していた。
鈴をつけた監視員二人組が私の後方から歩いてきた。
無言で通り過ぎた。
そしてまた戻ってきて無言で通り過ぎて行った。
なんだか不気味だった。
後でその時撮影したテープを見直してみると、監視員の一人が小型のビデオキャメラを持って私を撮影していたのだった。
なんか怖い感じがした。
撮影を終え、船着き場へ。
函館大間は1時間半ほど。
とっても近い。
遠のいていく大間原発を見ながら5月19日の裁判のことを考えていた。
つづく
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