2010年12月9日。石垣から波照間へ
石垣・民宿ぱいらんどにて。
朝ごはんの時、オバアの昔話を聞く。戦後間もない、オバア4歳の時、本島から南大東島に家族で船で渡って行った。
今の難民船のような船にたくさんの人が乗り込み、1週間で着くと言われていたのが、結局1ヶ月もかかった。
オバアは一人っ子で、父親が鍛冶屋だった。家はクバの葉でつくった。
屋根や壁はクバだったそうだ。南大東島はハブがいないので、隙間だらけの家でも大丈夫だった。
涼しくてとっても快適だったそうだ。
土地を開墾し家をつくり、まさに自給自足の暮らしだった。
「早く子供をたくさん産んで両親を楽にしてあげたい」と、オバアは小さい頃から思っていた。
船の中で一緒になった人たちは島南大東島に渡ってからも、家族のように付き合い、苦楽を共にした。
オジイは両親と7人の兄弟の次男で14歳の時、一人島南大東島に渡った。
それから農業などをして基盤をつくり家族を呼び寄せた。
そしてオバアが16歳の時、オジイに恋をして17歳で結婚。
それから毎年子供を産み、5人の子供に恵まれた。
子供を食べさせて行くために、日本全国様々なところに出稼ぎにでた。
現在暮らしている石垣島にも出稼ぎで来たのだが、オジイがここを気に入り、今はここで民宿を営んでいる。
石垣に来て15年になるそうだ。
そして38歳でオバアになり、今では63歳で21人の孫を持つ。
波乱万丈なオバアの人生。
オバアは生きることのつらさ、しんどさ、そして喜び・面白さも大いに味わっている人だ。
あむりたの庭、そして音楽の宮本進吾さん。
智子さんと奥田さんと3人で石垣の上映会場のあむりたの庭、そして音楽へ。主催してくれる宮本さんに挨拶をした。
今年の1月、ひょんなことで彼と出会ったことで、今回のツアーが実現した。
それから私は船で波照間に渡った。
奥田さんがフェリー乗り場まで見送ってくれた。
道すがら西表島にもっといたかったよねなどと話していたら、西表できび刈りを教えてくれた嘉本さんばったり会った。
びっくり。
石垣の船乗り場。この船で波照間に渡る。今年の8月に就航したばかりの双動船。欠航が少なくなったそうだ。
日本最南端の島・波照間へ。
奥田さんと別れて、船で波照間に向かった。
波もなく穏やかな海がどこまでも続いていた。
波照間。ニシ浜。
照島荘の星日出子さん。
港につくと、お世話になる宿の照島荘の星日出子さんが迎えに来てくれた。
以前はこの宿のヘルパーだったのだが、この宿をやっていたオバアができなくなって、後を継いだのだそうだ。
波照間と照島荘をこよなく愛する人だ。
彼女の話を聞いているとこの島への愛情が伝わってくる。
島の中央が高台になっていてそこに五つの集落がある。
その他は、サトウキビ畑、牛の島だ。
そばカフェあとふそこ
波照間上映を主催してくれた後富底なほ子さん。
そばカフェあとふそこは、ゆったりとくつろげる空間だった。
ナオコさんは、私が資料として送った新得バンドのCD「楽音日和」を聞いてから、上映のイメージが明確になったそうだ。
音楽がこの店の雰囲気にマッチしていてとてもいいと。
それを聞いて私はとても嬉しくなった。
新得バンドのみんなにも知らせたい。
ナオコさんはこの島に嫁に来て12年ほど。
二人の子供のお母さんであり、店を切り盛りするちゃきちゃきした女性だ。
波照間小学校と中学校は隣接している。
現在、中学生10人。
小学生24人がこの学校に通っている。
ガジュマルの下の木陰は涼しかった。
機材を借りにナオコさんと小学校へ一緒に行った。
明日、機材をつなげて映像と音をチェックをする。
コート盛。
昔ここでのろしを上げていた。
通信手段でもあったらしい。
夜、照島荘で星さん、ナオコさん、お客さんの太田さんと4人で鍋を囲んだ。
大根、青梗菜、春菊などの島の野菜、海老、豚肉。
ナオコさんのオバアのつくった採りたての大根がみずみずしくてとてもおいしかった。
島はこれからが野菜のシーズンなのだ。
4人で楽しい夕食だった。
コート盛からの風景。
いたるところにヤギがいるのだ。
夕食後、みんなで外に出てさとうきび畑の間を歩く。
星さんは星のガイドもできる。
星を指し示すレーザー光線を持って解説してくれた。
ここは空が広い。
この夜は月もなく雲も少なかった。
星がたくさん見えた。
ふたご座流星群が近づいているらしい。
流れ星を4つほど見た。
今、この日本最南端の波照間島に自分がいて、「空想の森」の上映ができるなんて、すごいことだと思った。
「明日、与那国に行くのをやめて波照間に行きます。」と奥田さんから連絡があった。
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