2005年8月
『空想の森』便り 第6号
監督 田代陽子
みなさん、こんにちは。
北海道はお盆を過ぎ、急に涼しくなってきました。
8月はぐずついた天気が続きました。少なからず、野菜の生育や味に影響があるようです。
それでも聡美たちが共働学舎でつくっている野菜たちは、今一番のピークです。
トマト、きゅうり、人参、ピーマン、なす、ズッキーニなどなど。
美味しくてしあわせです。
田代陽子の撮影日記 2005年6月23日〜7月7日
<第10回SHINTOKU空想の森映画祭2005を振り返って>
「すべては夢見ることから始まった」。
1996年、第1回目の空想の森映画祭のキャッチコピーである。
今思うと、この映画祭に参加したことが、私にとって、すべての始まりだった。
映画祭と出会って、私はドキュメンタリー映画づくりのスタッフになり、それと平行して、空想の森映画祭のスタッフにもなった。
映画づくり、映画祭を通して様々な人と出会い、スタッフたちといっしょに試行錯誤しながら、一つのものをつくってきた。
この10年、色んなことがあった。
もちろん、いいことばかりではない。
いつも何かしらの問題にぶつかっていたり、抱えていたり。
その時々で私は精一杯、問題に向かっていったつもりではいる。
映画の撮影では、2003年の春から、キャメラマンの問題などで撮影ができない状態が2005年の春まで続いた。
同じ時期、私は病気になった。
体の調子がとても悪く、心身共に悪い状態が長い間続いた。
2004年の9回目の映画祭は初めて休んだ。
そんなこともあり、10回目の今年の映画祭は、私にとって特別感慨深いものになった。
どうしても自分の映画祭は気合いが入ってしまう。
来たお客さん、ゲストの方々に気持ち良く楽しんでいってもらいたいという気持ちが強く働くからだ。
休んでいた時、こうあるべきだとか、こうしなくてはいけないという思い込みが強かったのではないだろうかという反省があった。
今年は、一映画祭スタッフとして10回目をやっていこう、そして楽しもうと。
そして今回は私も被写体になって、岸本君と一坪君に私たちの10回目の映画祭を撮影してもらおうと思って臨んだ。
映画祭はやっぱり楽しい。おもしろい。
2005年6月23日金曜日。
スタッフのまりんが、カフェで本部店のおでんの具の卵の殻をむいていた。
二人の年輩の女性のお客さんがやってきて、いっしょに手伝ってくれていた。
その一人の方が「あなた、田代さんでしょう?」と私に話しかけてきた。
9年前、美和ちゃん、有里ちゃん、美根、私の4人で結成した「ブラボー!茂の会」で開催した『阿賀に生きる』上映会・小林茂講演会に来てくれたお客さんだったことがわかった。
私はとても驚いて、同時にとても嬉しかった。
その9年前のイベントは、私が1回目の空想の森映画祭に参加して、小林茂さん(ドキュメンタリー映画『阿賀に生きる』のキャメラマン)と出会って、その時いっしょに映画祭に参加していた仲間四人で、その半年後の1996年11月に開催したものだった。
私たちにとって、自分たちで一からやった初めてのイベントだった。
その半年間は、開催に向けて私たち4人は毎日半徹夜状態で目一杯動き、それと平行して山に登ったり川で泳いだり月見の会をやったりと、真剣に遊んだ日々でもあった。
たった4人で始めたことだったが、プレイベントの上映会に250人の人たちが来てくれた。
来たお客さんの中に、上士幌高校三年の生徒たちがいた。
やっている私たち4人をみて心配になったのか、彼らが私たちが次にやる本展のイベントをいっしょに手伝ってくれると申し出てくれた。
そして私たちはその3ヶ月後の1997年1月、帯広の藤丸デパートで5日間、「小林茂写真展〜ウガンダに生まれて〜」を開催したのだった。
ウガンダから民族衣装や教科書やコーヒー豆を取り寄せて展示したり、取り寄せた豆を焙煎し、ウガンダのコーヒーを来たお客さんにふるまった。タイコのライブをやったり、写真展以外にも色んなことをやった5日間だった。
そんなことが走馬灯のように甦ってきた。
このご夫人たちはその後も、映画祭に何度か来てくれていたそうだ。
続けてきてよかったなあとしみじみ思った。
2005年6月24日土曜日。
受付前で突然私に若い女性が「スタッフやりたいんですけど。」とやって来た。
聞くと彼女は知床の斜里からはるばるやってきたのだ。
「では早速お願いします。」と私は答え、あらかたのことを説明し、受付嬢の河崎さんとあけみちゃんにバトンタッチした。
3人でチームワークよく楽しそうに映画祭の受付をやっていた。
名古屋からお客さんとして来ていた竹中さんという女性も、私たちが忙しそうにしているのを見て「何かお手伝いしましょうか。」と言ってきてくれた。
すぐさま人が足りなかった本部店の手伝いに入ってもらった。
カフェのマスターのネコさんが張り切って竹中さんに教えていた。
帯広で映画祭のポスターを見てやってきた男性は、結局初めから終わりまでびっしり手伝ってくれた。
重たいもの運んだり、ゴミを集めたりと何かと動いてくれた。
映画祭が終わると、彼は再び放浪の旅に出ていった。
2005年6月26日日曜日。
最終日。野外でのさよならパーティー。
昨日の野外上映の時、雨に降られ、ホールの中での上映に変更した。
そしてまた、パーティーが始まる頃にかなりの雨が降ってきた。
撮影のことを考えて、私はやきもきしていた。
校舎沿いにつくったタ−プの下のスペースにテーブルとイスを移動し、バンド演奏の場所は柏の木の下から、校舎の玄関に移動した。開期前、柳の葉を支柱にくくりつけたりぶら下げたりした甲斐があって、タ−プ下のスペースも、これはこれでいい感じになっていた。
雨足も弱くなってきて、なかなかいい雰囲気のパーティー会場になった。
料理は今年も豪華だった。
おっちゃんを中心に有里ちゃん、よしさん、圭介さんなどが腕をふるった。
鯛飯、マグロのかま焼き、窯焼きピザ、新鮮な野菜、マグロのかまのカレー、厚岸の牡蠣焼き、イカ焼き、聡美さんのつくったデザートなどなど。
今年は映画祭十回目を記念して、スタッフがそれぞれが川柳で映画祭を詠んだ。
プログラムにそれを印刷し、お客さんからの投票で大賞を決めることにした。
そしてゲストのギリヤーク尼崎さん、相原信洋さん、あがた森魚さんにもそれぞれ一句を選んでもらうことにした。
30人がエントリーした。
どれもそれぞれ味のある句だと私は思った。
大賞は山北紀彦さん(N’DANA)の「手をひろげ むかえてくれる 柏の木」。
相原賞はインデアン(スタッフ)。「トラブルと ビール担当 いんであん」。
ギリヤーク賞は藤本幸久さん(実行委員長)。
「この森で 夢見ることから 始まった」。あがた賞はなんと私、田代陽子。
「解き放つ 映画と希望 空越えて」。
私はもうそりゃ嬉しかった。まさか私の句があがたさんに選ばれるなんて思ってもなかった。
もちろん自分では、私の句が一番とは思っていたけど。
これはあがたさんからの映画祭と私へのエールだと思った。
新得バンドの演奏は大いに盛り上がった。
お客さんもいっしょに歌ったり踊ったりバンドのメンバーも楽しそうだった。
そして、おっちゃんの歌は最高だった。
やっぱり映画祭はいいもんだよなあと思いながら、私は改めてスタッフのみんな、ゲストの人たちとのつながりを感じた。夜も更け、あらかたの人が帰っていった。
毎年するように、誰もいない校舎の中を、私は一人歩いた。上映会場、廊下、カフェ。この空間で起こったすべての出来事、出会った人たち全てを愛おしく思う気持が込み上げてきた。
そして、いつも感じる今年も映画祭が終わってしまうんだという寂しい気持ちはあまりしなかった。
それよりも何よりも、今こうして岸本君と一坪君という二人の青年といっしょに撮影をしていることが嬉しくてたまらなかった。
「さあこれからだ。ようやっと映画『空想の森』は立ち上がったんだ。」という思いの方が強かった。
10年前の空想の森映画祭で、この柏の木の下で味わったことが私の原点なんだと改めて思った。
ドキュメンタリー映画はなんて豊かで面白いものなんだということ、大人たちがこんなにも楽しんでいる時間と空間をつくっているということを。
2005年6月27日(月)雨。寒い。新内ホールの片付け。
8:00 起床。
私はひどく体が疲れている。
朝風呂で腰浴。
岸本君、美和ちゃん、一坪君、おっちゃんも起きてくる。
私はコーヒーを入れる。
9:00 新内ホールへ。
藤本さんは役場に返す大きなものをトラックに運び込んでいた。
西村さん、佐野さんは外の憩いのスペースに立てたパイプをばらしていた。
有里ちゃん、よしさんたちは窯の周りを撤収していた。
美和ちゃんはキッチンの片付け、おっちゃんは窯へ、岸本君と一坪君は藤本さんたちに合流した。
私は来年のために事務用品やら資料やらポスターなどを、必要なものといらないものに選別しながら片付けていった。
まゆこちゃんと憲一さんがテキパキと手伝ってくれたのでとても助かった。
ゲストだった山北君マサトさんも最後まで手伝ってくれた。
17:00 新内ホールの撤収は大変だけど私は結構好きだ。
ゆっくり名残り惜しむ時間もないけれど、仲間と一緒に会場をきれいにするのも、いい時間だ。
ばらして、返すものを返し、ゴミも捨てにいって、ホールの掃除も終わった。
おっちゃんと美和ちゃんがじいちゃんちに来た。
疲れたからみんなでどこかに食べに行こうかと言っていた。
とりあえず、家の中に入り、薪ストーブに火をつけて暖まったら、ストーブの周りでみんなで和んだ。
するとおっちゃんが、映画祭の残り物のきゅうりとちくわを味つけして出してきた。
それをみんなでつまみながら、なんだかんだと話していると、今度はチーズを切って出してきた。
「そうなるとやっぱりワインが飲みたいよね。」ということで、残り物のワインをみんなで飲みながら、またとりとめのない話。そうこうしてるうちに、私もチーズとトマトときゅうりのサラダをつくった。
おっちゃんに味を整えてもらうと格段に美味しくなった。聡美さんのレタスも出てきた。
こんな感じで食べているうちにお腹が膨れてきた。
一坪君とおっちゃんと美和ちゃんは、疲れきってストーブの周りで寝てしまった。私は風呂に入った。
出てきて岸本君、起きてきた一坪君と、とりとめもなく色んな話をした。
映画祭のこと映画のこと、今後の撮影のこと、戦争のこと、アメリカのことなど。
私たちは同じ方向を向いていっしょに映画をつくろうとしているんだと感じた夜だった。
ものすごい体は疲れているのだけれど、気持ちは嬉しくて元気だった。
2005年6月28日(火)晴れ。撮影は休み。星空が素晴らしかった。
11:00 起床。腰浴。朝食。
コーヒー、フロマージュブラン、ホエイジャム、聡美さんがつくったクッキー。
今日の休日をどう過ごそうか、三人でなんだかんだと話す。
12:30 焼却場にゴミを捨ててから、帯広へ向かう。
国道38号で13キロオーバーのスピード違反で捕まる。
我慢できずに警察の人に思ったことを言う。
芽室の安田スタンドで給油。
有里ちゃんの父さん母さんにスタッフを紹介する。
おじさんが私たちにジュースをごちそうしてくれた。
帯広温泉で温泉に入る。
十勝ビールで地ビールとピザを3人で食べる。
17:30 芽室の平和園で焼肉を食べる。
藤本さんも合流して4人で。
20:00 帰宅。素晴らしく星がきれいな夜だった。
『森と水のゆめ』の撮影でトムラウシに登った時、テントから顔を出して満点の星空を眺めた時以来。
下界では今までで一番といっていいくらい星が見えた。
あんまり美しいので3人でD型倉庫の前に行って星を眺めた。
私と一坪君はマットをひいて寝転びながら見ていた。
この辺りは真っ暗なので、本当に星がよく見える。天の川もよく見えた。
一坪君は三脚に自分のスチールキャメラをつけて星空を撮影した。
彼の昔の夢は天文学者になることで、星がとても好きなのだ。
天の川を見ることが夢の一つだったので「夢がかないましたよー!。」と、とても興奮していた。
岸本君はいつのまにかいなくなっていた。私と一坪君は「あー、流れ星だ。あそこあそこ。
あー、また人工衛星だ。」と飽きもせず3時間以上も話ながら星を眺めていた。
本当にいつまでみても飽きない美しい星空だった。
星の話、宇宙の話、空間の話などしていると一坪君は止まらない。
そんな話をしながら、果てしない宇宙空間の中のとてもちっぽけな存在の私たちが、偶然だが必然だかわからないが出会って、こうして日本の北海道の新得の新内でいっしょに映画を撮っていることが、なんだかものすごい貴重なめぐり合わせのように思えてきた。
23:00 家の中にもどり、30日の撮影のことなど話す。
スチールは一坪君が撮ることにした。CDのジャケットの絵も一坪君が描いたらいたらどうかと。
「次回の撮影報告の映画祭の部分は僕が書きます。」と岸本君が言った。
「それはいいねえ。」と私は答えた。
2005年6月29日(水)晴れ。風強し。
7:00 起床。朝食。パン、チーズ、レタス炒め、卵やき、コーヒー。
9:00 ラッシュを見る。
13:00 昼食。ご飯、味噌汁、納豆、ホウレン草の炒めもの(一坪作)にらのおひたし(田代作)、パセリ、きゅうりとトマトとツナのサラダ
15:00 9月に撮影する予定の新得バンドが軽トラの荷台に乗って新得町を走る撮影のロケハン。
練習小屋引きと寄りの2カット、共働学舎の牧草地引きといっしょに乗っての2カット、食堂前1カット、共働学舎へ向かう砂利道1カット、新得町駅前2カット、新内の宮下さんの家の前1カット、藤本さんハッピーの散歩1カット、新内ホールの前1カット、じいちゃんちの前の空に向かっていく道1カット。
ミンタルにて一坪君がお土産のチーズを買う。ソフトクリームとシューソフトを美和ちゃんがご馳走してくれた。
18:15 牧草地より、夕景の撮影。
19:00 夕食。
トムヤンクン風スープ(もやし、しいたけ、豚肉、ねぎ。岸本つくる)、まぐろのかまの煮物(田代)、ご飯、さくらんぼ。
21:30 ラッシュをみる。
今回の映画祭はよく撮れていた。
私が感じている映画祭だった。
今回のこと、今後のことCDのことなど3人で色んなことを話した。
一坪君は明日帰るので、今回、映画祭の打ち上げの日にみんなに見せる映画祭のラッシュの編集をやってもらうことにした。
1:00 私と岸本君は就寝。
一坪君は徹夜でラッシュの編集。
2005年6月30日(木)快晴。映画『空想の森』が贈ってくれた幸せな一日。
7:00 起床。岸本君は緊張のためか、すでに起きていた。
一坪君は「わけわからなくなった」と言って、いましがた寝たらしい。
8:30 岸本君と二人で、今日の収録に使う太鼓などを練習小屋に取りに行く。
駅前のカメラ屋でフィルムを買う。
帰る途中宮下さんが畑にいたので、7月2日の映画祭の打ち上げのお知らせなどをして少し立ち話。
9:40 美和ちゃんより電話。
今日はみんな忙しい中、収録にくるのだから昼ご飯を用意しておくようにとのこと。
もちろん言われなくても用意していた。ご飯を炊き、味噌汁をつくり、マグロのかまの煮付けも。ビールだってある。
11:00 聡美さん以外みんな集まった。天気は上々、風もない。
願ってもない野外録音日和だ。この新得バンドのCDのタイトルは『楽音日和』。
英語のタイトルは『It all started with dreaming』(「全ては夢見ることから始まった)山之内さんに訳してもらった。)と岸本君が決めた。
聡美さんが来るまで、サックスの憲一さん、トランペットの圭介さん、ベースの嘉さん、コンガの美和ちゃんがウォーミングアップをしている。
天気もよく開放的な野外で、なんだかいい気分だ。
みんなも気分よさそうにアップをしていた。
岸本君はマイクを三本立て、中央にミキサーを置き音の調節をしている。
一坪君も三脚をたてキャメラの位置を決め撮影をしている。それぞれ自分の仕事を黙々としている。
今回は音の録音がメインだが撮影もすることにした。
スチールも一坪君にまかせた。私は麦茶をつくったり、昼ご飯をつくったり。
一時間程遅れて聡美さんがあかりといっしょにやって来た。
牧草の時期で憲一さんは仕事を休めず、2時には仕事に戻らなくてはいけない。
あまり時間がない。
さっそく収録をはじめた。
収録のためのオリジナル曲ということでお願いしていたが、みんなでそろって練習する時間がほとんどなく、この場で即興でつくりながらの収録となった。
それがまたよかった。
この日の空、雲、空気、鳥の声、D型倉庫、牧草を運ぶトラックの走る音、新得バンドのメンバー、そして撮影スタッフの私たちすべてが一体となって見事に調和した空間となった。
そこから生まれた音楽はまさに「楽音日和」という感じの曲だった。
この1曲目に演奏した曲のタイトルは「楽音日和」となった。
私はとりたててやることもなく、ただ何とも幸せな気分で夏の陽をあびながら収録現場にいた。
この日は2時過ぎまで3曲を収録した。
D型倉庫前でバンドメンバーのスチール写真の撮影をした後、憲一さんは昼ご飯も食べられず、急いで仕事に戻っていった。
15:00 他のメンバーはじいちゃんちでみんなでお昼ご飯を食べた。
ご飯、味噌汁(もやし、ねぎ)、レタス、まるてん焼き、豆腐、ビール、すいか。
16:00 食べ終わってみんなでじいちゃんちの牧草地へ行った。
そこでみんなでエアロビーで、ひとしきり遊んだ。
その後、牧草地にてスチール撮影をした。
17:45 一坪君東京へ帰る。新得駅まで送る。
18:30 夕食。スパゲティ。
20:00 岸本君は音のチェック。私は機材の掃除整理。
22:00 一坪君が編集したラッシュをみる。
やはり訳分からなくなっているようだったので、岸本くんといっしょにやり直すことにした。
1:30 就寝
2005年7月1日(金)曇り。少し寒い。
8:30 起床。腰浴。
9:00 朝食。タイ風焼飯(岸本)、味噌汁。
10:30 ラッシュ編集。
今回撮影した映画祭の部分を1時間にまとめた。
16:00 太鼓を練習小屋に返しに行く。
十勝毎日新聞社の記者の成田さんに挨拶に行く。
カメラ屋に昨日撮ったフィルムを現像に出す。フクハラで食材の買い物。
文代さんにばったり会い、学舎のレタスをいただく。
16:30 ラッシュ編集。
1時間きっかりに納まった。
20:45 編集終了。
見直しながらVHSに録画。
なかなかいいラッシュができた。
22:10 夕食。
チャーハン(豚肉、しょうが、田代つくる)ビールで乾杯。
23:40 私が1998年につくったビデオ、『空想の森から〜予告編〜』を岸本君といっしょに見た。
その頃の自分たちを、ただ記録しておきたいと思って撮ったものだったが、まさかこの後本当に自分で映画を撮ることになるとは思ってもいなかった。
このビデオは本当に予告編となったんだなあと思った。
自分の学生の頃を思い出したと岸本君が言った。
私も久しぶりに見て、結構面白かった。
明日はじっくり、今後の話し合いをしようということになった。
0:30 就寝。
2005年7月2日(土)曇り。涼しい。ハッピー死にそうになる事件。映画祭の打ち上げ。
8:30 起床。腰浴。岸本君は外で音を撮っていた。
10:00 朝食。酵母パン、チーズ(コバン、プチ・プレジール)、野菜スープ(岸本つくる)、コーヒー。
10:30 掃除。玄関、トイレは岸本くん。掃除機と台所は私。
12:30 昨日まとめたラッシュの見直し。
13:30 昼食。ご飯、豚肉の野菜巻き(アスパラ、大葉、もやし、ニンジン、インゲン)
15:00 町へ出る途中、藤本さんの家にコードを返しに寄る。
藤本さんが新内に来た時から飼っているパッピーという犬がいる。
真っ白の毛足の長い雌の大型犬で、気立てが良く人懐っこいので番犬にはならない犬だ。
いつも駆け寄って来るパッピーがピクリとも動かない。
変だなと思ってハッピーに近づいていくと、近くにあった棒にひもがぐるぐるに巻き付いて、ぬかるんだ泥の上に身動きが取れない状態で横たわっていた。
下半身にはびっしり蠅がたかっていた。
岸本君がひもをほどいてやっても立ち上がれずなんだか様子がおかしい。水が欲しいだろうに動けずにいる。
水の樽をもってきてあげると、よろよろと立ち上がろうとするが、体が痙攣してしまっていた。
樽を傾け、寝そべったままで水が飲めるようにしてあげた。
私はもう動揺していた。
「ハッピーが死んじゃう。」藤本さんに電話をかけるが繋がらない。
いんであんに電話したが釧路に出張中。ハッピーの状態を説明し、知り合いの米岡さんという獣医さんの電話番号を教えてもらう。
その人にすく電話したが、牛で忙しいので夜8時まで行かれないと言われた。
ハッピーの様子を説明すると、行くまでもつかなあと言う。私は焦って共働学舎の美和ちゃんに電話し、今日やっている動物病院を調べてくれとお願いした。
そのしゃべっている間にハッピーの容態がどんどん悪くなってきた。
呼吸はぜいぜいし、全身痙攣して時折苦しそうな声をだしていた。
岸本君が「ハッピー、ハッピー、頑張れ。」と言って横にぴったりとついてハッピーを励ましている。
ハッピーは苦しそうにしながらも、水を飲み続けていた。
美和ちゃんと電話をしながら私はさらに動揺して泣けてきた。
土曜日だったため、動物病院は帯広のイソップ動物病院しかやっていなかった。
学舎のやさい屋でまわていたところだ。
そこに電話をかけて、ハッピーの様子を説明すると、先程の獣医の先生と同じようなことを言われた。
すぐに病院に連れてくればなんとか助かるかもと。
畑にいた宮下さんのところに相談に行った。
帯広まで遠いし費用もかかるし、藤本さんが帰ってくるまで待ったらどうかということになった。
それで私は、お医者さんが水にポカリを混ぜて飲ませたらいいといったので、買いに出かけようとして岸本君を見ると、「オレはハッピーの傍についていてあげます。」ときっぱりと言った。
帰ってくると美和ちゃんが仕事を抜けて、様子を見に来てくれた。
動物が得意でない私と岸本君では心配だったのだろう。
ハッピーを毛布の上に寝かせてくれていた。
少し落ち着いたようだった。
私も美和ちゃんが来てホッとした。
宮下さんから聞いて、文代さんも自転車で来ていた。
文代さんが「死臭がするわ。うちの犬も蠅がたかってこんな臭いして死んでしまったわ。」と不吉なことを言った。
ポカリ入りの水は嫌いなようで飲まないので、ほんの少量のポカリを水に入れた。
藤本さんにやっと連絡がついた。
私の話を聞いてさすがにびっくりして「急いでもどる。」と言った。
17:30 獣医の米岡さんが来てくれた。
一件キャンセルが入って早く来られた。
お尻の穴の脇に糞がたまってしまい、それが膿んで痛くなっていたそうだ。
老犬によくある症状だそうだ。岸本君がハッピーの体を押さえ、先生はビニール手袋をしてお尻の穴に手を突っ込み、膿をかき出した。
ハッピーはものすごい痛がり声にならない声を出した。
その後、抗生物質を注射した。
牛用の太い針しかなかったのでそれを打ったが、ハッピーは何も感じていないようだった。
先生が「痛みを感じない程、よっぽど弱っているんだなあ。」と言った。
ブドウ糖の点滴もした。
藤本さんが家を空けて何日かわからないが、その間にひもがからまり、動けなくなって脱水症状になって弱ってしまったのだろうということだった。
確かにこのところとても暑い日が続いたからどんなにか辛かったろうに。
とにかく、しばらくは楽な生活をさせてあげること。
家の中で生活させてあげて、体をふいて清潔にし、食事もお粥などを食べさせ、毎日体重をはかり、糞やおしっこもチェックすることという指導を受けた。
藤本さんが帰ってこないのでメモを取った。
私はお粥をつくった。
18:15 藤本さん帰ってくる。
獣医さんの話を説明する。
今晩はもうすぐ映画祭の打ち上げだ。
私たちはじいちゃんちに戻る。
藤本さんはハッピーの看病でもちろん参加できない。
今日は今後の話し合いをゆっくりしようとしてたが、それどころではなかった。
私は風呂に入る。
19:00 今晩は映画祭の打ち上げだ。
宮下さん、文代さん、亜海ちゃん、止揚くんの宮下一家やってくる。
鳥肉の空揚げ、小松菜の味噌和え、野菜を持参。
それから続々とみんなやってきた。
美和ちゃんはシャケのホイル焼き。真以子さんと成田さんは餃子とうどん。
憲一さんと聡美さんとあかりはじゃがいもと玉ねぎのオーブン焼きとルバーブパイ。
佐野さんは天ぷら、コロッケ。
共働学舎の加藤さんと佳子さんとサヤ、マナは生春巻き、圭介さんはワイン、遅れて箕浦さん、よっちゃんも8ミリ映写機を持ってやってきた。
食べて飲んでひとごことち着いたので、あまり酔っぱらわないうちに、やることをやらなくてはいけなかった。
今回の映画祭で問題になった煙草の件を話した。
煙草を吸いたい人、嫌いな人、気分の悪くなる人、煙りで体がおかしくなる人など色んな人がいるわけで、ただ分煙すればいいというものでもない、ということが今回よくわかったので、これからみんなでよく考えて来年に活かしていこうということになった。
新得バンドのCDジャケットのデザインを真以子さんにお願いした。
みんなそろっているのでこの機会にとジャケットの打ち合わせもした。
録音の岸本君が被写体の人たちに喜んでもらいたいという気持ちから、ミニCDをつくろうと言ってきた。
私は映画の宣伝や紹介にも使えるし、これはいいアイデアだと思って「やろう!やろう!」と言った。
そして、デザインを真以子さんにお願いしたらすぐにOKしてくれた。
真以子さんは「つくるんだったら納得するものをつくりたいから、CDのコンセプトをもっとはっきりして欲しい。
今の話だと、映画『空想の森』と空想の森映画祭と新得バンドという3つの要素があっってよくわからない」と私たちに言った。
私はCDに関しては、岸本君がいいと思うものをつくればいいんじゃないかくらいにしか思っていなかったので、真以子さんの意見を聞き、それはもっともだと思った。
私たち撮影隊そしてバンドのメンバーにもいっしょに、今年いっぱいくらい時間をかけてじっくりコンセプトを考えていきながら、CDジャケットをつくっていこうということになった。いいものをつくっていこうということで意見がまとまった。
そしてビデオ上映会を始めた。
1本目は宮下さんが持ってきたビデオ。
宮下さんたちの子供たちが小学校に通っていた時、学芸会で恒例で父兄の出し物をやっていた。
この新内地区の父兄たち、宮下さん、文代さん、いんであん、その奥さんのはるみさん、進ちゃん(私たちが家を借りている故小川豊之進じいちゃんの長男)などの出し物、「剣の舞い」「白鳥の湖」が録画されている。
私は見るのが3回目なのだが、何度見ても抱腹絶倒なのだ。
「剣の舞い」では宮下さんが指揮者なのだが、音楽に合わせて、何かにとりつかれたように激しく真面目に指揮棒を振る姿がおかしてたまらない。
「白鳥の湖」では、なんといっても白鳥に扮したいんであんが音楽に合わせて舞っている姿がたまらなくおかしい。
もう1羽の白鳥、進ちゃんの踊りもおかしい。進ちゃんは7年前のちょうど今頃、突然亡くなった。
「進ちゃんの供養になるね。」と文代さんがぽつりと言った。
思いっきりみんなで笑った後、私たちが今回撮影した映画祭を1時間にまとめたラッシュを上映した。
見ながら笑ったり、話したりみんなの反応もよく、なかなか好評だった。
その後は映画祭で十勝映像の記憶というプログラムで上映した30年くらい前に地元の8ミリ同好会の人がつくった「若者たち」、「カニの家」を上映した。
ちょうど宮下さんやいんであんが新得に移住してきた頃の帯広のあたりの映像だった。
この映像に触発されて、私は7年前に私がつくったビデオ「空想の森から」をみんなに見せてみたくなった。
20分程のものなのでみんなに見てもらった。
これがわりと反応がよっかた。
佳子さんなんかは、「すごくよかったよ。なんで陽子ちゃんが今映画を撮っているのか少しわかった気がする。」というようなことを言っていた。
よっちゃんの自前の映写機で、宮下さんのいとこが撮った8ミリも上映した。
生まれたばかりの止揚くんを嬉しくてしょうがないといったふうに抱いている若き日の宮下さんと文代さんがそこにいた。
0:00 みんな帰っていった。佐野さんは泊まっていった。
2005年7月3日(日)曇り。新内ホールにてOKIの野外ライブ。N’DANAも出る。
11:00 起床。腰浴。朝食。ご飯、目玉焼き。
12:00 新得バンド収録のラッシュを見た。
あの日の雰囲気かよく伝わるものだった。岸本君とCDジャケットの話をする。
15:30 ハッピーの様子を見に、藤本さんの家へ行く。
いんであん、美和ちゃんもハッピーの様子を見にたまたま来ていた。
玄関に毛布をしいてあり、ハッピーはそこに横たわっていた。
昨日よりだいぶ回復した感じで、落ち着いていた。
ホッと安心してみんなでハッピーを囲んで昨日のことなどひとしきり話していた。
ハッピーは私たちの話を聞いているようだった。
死にそうにならないとみんなが気に掛けてくれないなんてかわいそうだから、普段からもっとハッピーをかまおうと思った。
CDの件、藤本さんに相談してみた。
今の時点で新得バンドの曲をこの映画のテーマ曲として位置付けてつくったらどうかという助言。
17:00 じいちゃんちに戻り、私はコーヒー豆をひいた。
今日は新内ホールでOKIのラ野外ライブだ。
岸本君は山北君とマサトさんも出るので楽しみにしていた。
私はライブを見ながら、美和ちゃんとコーヒーの屋台を出す。
会場に行くと柏に木の下にコンパクトで機能的なカフェができていた。
ホントこういうの美和ちゃんは上手だ。
ホールの中の台所では、帯広でカレー屋をやっているジュンちゃんが打ち上げの料理をつくっている。
箕浦さんは忙しそうに取り仕切っている。
西村さんは焚き火やかがり火に薪をくべている。
亜海ちゃんとまりんは受付嬢をしている。
宮下さん、文代さんもきていた。
映画祭のメンバーが色んな役割をしていた。
私はコーヒーを入れながらライブを楽しんだ。
岸本君は私のキャメラで大好きなマサトさんの写真を撮りながら、ライブを楽しんでいた。
ツアー最終日でOKIさんはノリノリで終わったのは21時をまわっていた。
むねはトラックを持ってきて野外ステージの解体指揮をとっていた。
宮下さんや岸本君も手伝いに回った。
22:30 私は山北君、マサトさんとしゃべった後、一足先にじいちゃんちにもどった。
N’DANAも今ツアー中で、7月5、6日と空いているので、じいちゃんちに泊まりに来ることになった。
私は7日までじいちゃんちで後片付けなどしているので。
夕食の準備をする。豚肉の生姜焼き、ご飯、キャベツの千切り。
しばらくして、岸本君ヘロヘロになって帰ってくる。「映画祭の片づけよりしんどかったわ。
宮下さんもきつそうやったわ。」と言った。
遅い夕食を食べ終わった頃、美和ちゃんがライブの打ち上げの食べ物を持ってきてくれた。
カレー、新鮮でおいしそうなサラダなど。
岸本君が片づけを手伝ってくれたので箕浦さんが配慮してくれたそうだ。
それは明日食べることにした。
美和ちゃんにバンドのレコーディングのラッシュを見せ、3人で色々話をした。
今回の映画祭のラッシュはとてもよかったと、初めて美和ちゃんに言われた。
2:00 就寝。
2005年7月4日(月)少し雨。寒い。
9:00 起床。腰浴。朝食を早く起きた岸本君がつくってくれる。
昨日美和ちゃんが持ってきてくれたカレーなど。
あの美味しそうな野菜は、岸本君が炒めてしまし、すっかり変わり果てた姿になっていた。
「ああいう新鮮で美味しそうな葉ものの野菜は生で食べる方が美味しいと思うんだけど。」と岸本君に言った。
藤本さんロケ費2万円持ってきてくれた。
今日は空想の森便り第5号の宛名書きをする。岸本君にやってもらう。
現在210人の方々に協賛金をいただいている。
手書きでやってきたが、そろそろパソコンに入力してシールで打ち出せるようにしないと。
寒いので薪ストーブを焚く。
12:30 映画祭のスタッフの青柳さんが協賛金を届けにわざわざ来てくれた。
少し話す。
藤本さんより電話。文化庁の助成金に応募したらどうかと。
今年の12月までにシナリオなどを書いて応募しなくてはいけない。
来年の春くらいまで撮影をするつもりだし、編集にもしっかり時間をかけたいし。
などと話した。
13:30 進さんがくる。
小川のじいちゃんの一番下の息子さんで、町に住んでいて時々この家の草刈り、除雪など色々とやっている。
今年の映画祭のこと撮影のことなどひとしきり話す。
7月末にまたロケをすることを伝えた。
16:00 学舎へ。岸本君が明日帰るのでお土産を買いに行く。
美和ちゃん、聡美さんは、味わい便の発送作業で忙しそうだった。
帰りにフィルムを出し、ハッピーの様子も見に寄った。
うんちもしていたし、時々ハーハーと不整脈のような症状があったが、落ちついた様子。
そしてじいちゃんちに戻った。
19:20 今日は夕食にお呼ばれしていたので岸本君と二人で山田家へ。
今晩のメニューはお好み焼きとさやいんげんの炒めのも。
あかりは岸本君を見て大泣き。
だっこされて更に火がついたように泣く。
有里ちゃんから電話がきた。
今回の映画祭のラッシュのことや、新得バンドのレコーディングのことなど少し話した。
映画祭でかなり疲れたようだったが、体調も少しもどってきたとのこと。今度ラッシュ見てもらおう。
岸本君がお好み焼きを焼き、聡美さんが風呂に入り、次に憲一さんが風呂へ。
そしてあかりを入れる。風呂から出てきてみんなでビールで乾杯した。
聡美さんのお好み焼きはおいしい。
岸本君が持ってきた6月30日に収録した新得バンドの音を聴きながら食べた。
憲一さんが「6月30日は今までの自分の人生の中で3本の指に入るくらい素晴らしい日だった。」と言った。私もそう思った。
「もう一度7月の末あたりに収録をしたい。」とバンドのメンバーの要望があった。
圭介さんが新得にいるうちに収録をしようということになった。
圭介さんは学舎から離れて、道南に移住し、独立する準備をしている。
といことで岸本君の交通費は、半額バンドのメンバーが出してくれることになった。
そんな話を4人でしながら、整音をお願いしている久保田幸雄さんもこの時来てもらえたらいいなあとか、N’DANAの山北君、マサトさんもいっしょにできたらいいのになどと話が盛り上がった。
そしてCDジャケットをどうやってつくっていくかなども話し、じっくりといっしょにつくっていこうということになった。
帰りに聡美さんがキャベツとさやいんげんをくれた。
23:00 帰宅。ストーブを焚きながら、岸本君ととりとめもなく色んなことを話す。
3:00 就寝
2005年7月5日(火)雨。寒い。
10:30 起床。腰浴。
12:00 昼食。ご飯、野菜炒め(キャベツ、ニンジン、厚揚げ、ピーマン、しいたけ、エノキ、しょうが)、煮物(豆腐、厚揚げ、しいたけ)、さやいんげんの湯がいたもの、じゃこ、納豆、味噌汁(豆腐、岩のり)、コーヒー。
13:00 岸本君は宛名書き。山北君より電話。
今晩泊まりに来るとのこと。それで聡美さんと美和ちゃんに電話して、今晩いっしょに夕食をじいちゃんちで食べようと誘った。
私は森の映画社の判子を取りに藤本さんの家へ。
ハッピーは不整脈がまだあった。
新しい水にかえてやって水を飲ませた。
うんちに血が混じっていた。
シャベルで外に出した。
ハッピーは一度も立ち上がらなかった。
まだ弱っている。ブラシをかけてやった。
帰りに宮下さんのところに寄ると、作業小屋で小松菜の出荷の準備をしていた。
14:30 じいちゃんちにもどる。
少し前に山北君たちがやってきて、オソウシ温泉へ行くといって出かけたそうだ。
岸本君は宛名書きをギリギリまでやってくれた。
私は封筒に判子を押して空想の森便り第5号をつめていった。
そして岸本君がフェリーの中で食べるおにぎりをつくった。
17:30 山北君たちは戻ってこず。
大好きなマサトさんと話せることを楽しみにしていた岸本君は残念がっていた。
帰る時間になった。セイコーマートで荷物を出し、昨日出したフィルムの写真を受け取り新得駅へ。
今回は苫小牧から船で大阪に帰るのだ。
また3週間後ロケにくるのでしばしの別れだ。
久保田さんにラッシュを送って手紙をかいて、久保田さんが都合良ければ撮影現場を見てもらうということで次回お呼びしようということを話した。
そんなことを話しているうちに、2人で緊張してきた。
岸本君にとってはプロの録音技師として最も尊敬する人であり、久保田さんの一番最近にやった仕事で黒木和雄監督の『父と暮らせば』の音が素晴らしかったと言っていた。
久保田さんが沢山の経験があって現在活躍している素晴らしい録音技師であること、そんな久保田さんに、自分の現場をみてもらうということは嬉しい反面とても緊張する。
が、私は今ようやく自分の現場を久保田さんに見てもらいたいと思えるようになったことが嬉しい。
そして映画『空想の森』が久保田さんが加わることで、グレードアップすることは間違いない。
18:30 帰る途中に国道で1頭鹿を見た。
藤本さんの家の裏の牧草地で角が立派な雄鹿と雌鹿、子鹿の3頭、いんであんの家の裏の牧草地で2頭鹿を見た。
やたら鹿を見る日だ。米を研いで味噌汁をつくり、薪を運び風呂をいれた。
19:00 山北君、マサトさんが来る。
岸本君が会えずに残念がっていたことを伝える。
まもなくして仕事を終えた美和ちゃん、憲ちゃん、聡美さん、あかりもやってきた。
聡美さんがシュウマイとサラダをつくって持ってきてくれた。
学舎のチーズ、パン、いものきんぴら、デザート、ビール、ワインでみんなで夕食を食べた。
楽しい食事だった。
映画祭のラッシュをみんなで見た。
山北君は眠そうだったが、しっかり最後まで見てもらった。
この日はみんな泊まっていった。
3:00 就寝
2005年7月6日(水)雨。
9:00 起床。腰浴。朝食。コーヒー、パン、チーズ。美和ちゃんは仕事に出かけていった。
憲一さんは休みの日、聡美さんは雨なのでじいちゃんちでゆっくりしていた。
10:30 私は雨の宮下さんの畑を撮影に出かけた。
藤本さんの家にいって、映画祭のお金の精算などをした。
12:30 昼食。ごはん、味噌汁、いものきんぴら、キムチを山北君、マサトさん、聡美さん、憲一さんと食べる。
13:30 共働学舎食堂へ山北君、マサトさんもいっしょにみんなで行く。
シュタイナーの発声ワークショップを受けに行く。フィンランドから先生を招いて杏奈さんが企画したのもだ。
なんだか面白かった。眠くなったりした。
16:30 私は聡美さんの仕事を撮影。ハウスの中のトマトに珊瑚を噴霧機で噴霧しているところを撮影した。
19:00 帰ってきて機材整理とラッシュチェック。
20:30 夕食。聡美さん、憲一さん、美和ちゃんもやってきて、山北くん、マサトさんとにぎやかに食べる。
ご飯、スープ(豚肉、シュウマイ、インゲン)、豚肉とキャベツとインゲンの炒めのも。
サラダ。スープと炒めのもはマサトさんがつくった。なかなか料理が上手だ。
23:00 山田家帰る。山北君、マサトさんともゆっくり過ごせて、何だか楽しい2日間だった。
0:30 就寝
2005年7月7日(木)雨。寒い。
9:00 起床。
10:30 山北君、マサトさんは次のライブ地の北見へ出発。
見送った後、私はしばらくボーとソファーに寝転んだ。
「じいちゃん、終わったよ。」と写真のじいちゃんに報告した。
いい撮影だったなあ。またすぐ次の撮影だ。
次に向けてやらなくてはいけないことをノートに書き出した。
まずは、便り第五号を役所へ行って印刷し、宛名書きの残りを書いて出すこと。
久保田さんに手紙を書いてラッシュをコピーして送ったりなどなど。
長かったロケが終わった。
突然疲れがどっときたが、よろよろと掃除をしてゴミをまとめ、自分の荷物をまとめて車に積み込んだ。
今回は6/22〜7/7の映画祭の撮影の報告をまとめました。
映画祭の撮影は私も被写体になっていたので、実際の撮影はどのようにしていたのかを、録音の岸本君に書いてもらいました。
<今後の予定>
10月後半 帯広にてラッシュ報告会(予定)
11月 札幌にてラッシュ報告会(予定)
この便りを書き終えた二日後、藤本さんからハッピーが死んだという知らせがきた。
<田代陽子の一人での撮影項目一覧>
(2005年2月〜5月9日までものもは第5号に書いた)
2005年撮影したこと
5月17日
@共働学舎。聡美さんの仕事。
トマトのハウスへの移植。
泉さんの畑の視察。(共働学舎の敷地内の畑の他に近所にいくつか畑を借りている)
@食堂にて。
原君のお父さんが送って来たタイをさばく池田さんのおばさんと原君。
@泉さんの畑にて、とうきびの種まき。
聡美さん、牧也君、村上君、水もっちゃんなど。
5月20日
@牧草地からの風景。
@宮下さんの家のロング、新内小学校周辺。(校舎、柏の木、サホロ川など)
@宮下さんの仕事。
肥料まき。トラクターを使って。ラッパを使って。
5月21日
@共働学舎。羊の毛刈り。
佳子さん、まゆこちゃん、学舎の子供たちなど。
6月10日
@共働学舎チーズ工房。搾乳を待つ牛たちなど。
@朝のミルクの受け入れ。美紗子さん。チーズ工房からパーラーへ。
搾乳されている牛たち。フロマージュブランをつくる愛三(なるみつ)君。
圭介さんのシントコの製造。(撹拌、型入れ、プレス)
包装室にて、文代さん、美紗子さんなどがさくらの包装とコバンのシール貼り。
愛三君のラクレットカット。発送室にて働く佐々木さん。
包装室にて愛三君と千代さんがフロマージュブランのカップ詰め。
@作業が終わった誰もいない工房を二階から。
@放牧地の牛。
6月14日
@共働学舎。聡美さんの仕事。
育苗ハウスにてカボチャの定植の準備。
ハウスのきゅうりの水やり。
トマトの苗木の支柱結び。
@加藤さんの牧草刈り。
@花子Bの畑にてカボチャの定植。
6月17日
@じいちゃんの牧草地より風景。
@宮下さんの仕事。
チンゲン菜の間引き。
トラクターでじゃがいもの土寄せ。
人参の草取り。
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