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空想の森便り 第7号 2005年8月

2005年8月 映画『空想の森』便り 第7号 監督 田代陽子

新得バンドのメンバーが、もう少し練習をして、オリジナル曲を新たにつくり、また録音をしたいということで今回のロケが実現しました。

録音の岸本君の交通費を半額メンバーが出してくれました。

今回、撮影の一坪君はバイトが忙しく、1泊2日のきついスケジュールで自腹で撮影に参加することに。

なんといっても今回は、この映画の整音をお願いしている久保田幸雄さんにも来ていただくことになった。

黒木和雄監督の次回作のクランクインが遅れていて、この時期たまたま久保田さんのスケジュールがあいていたのでした。

7月28日から8月1日の短い間だけど、久保田さんに現場に身をおいてもらって、私たちの撮影をみてもらい、質問したり、話を聞いたりしたいと思っていました。

予算がないので、久保田さんも私たちスタッフの家であるじいちゃんちに寝泊まりして、いっしょにご飯を食べることになりました。

<田代陽子の撮影日記 2005年7月25日〜8月1日>

2005年7月25日。

そんなことで私は嬉しくてワクワクしたり、緊張したり。

前回のロケからあまり時間がなく、一人撮影、バイトなども忙しくテンションも高かった。

そしてロケ初日の7月25日の早朝、お腹の痛みと膨満感で目が覚めた。

子宮筋腫の関係かなと思ったが、この時は具合がとても悪く動ける状態ではなかったので、焦る気持ちを抑えながら湯たんぽでお腹を暖めて、ただジッと寝ているしかなかった。

前日の7月24日、私はあがた森魚さんのライブを幕別に見に行った。

その時あがたさんと少し話した。

『空想の森』をあがたさんは応援してくれていて、「陽子ちゃんがラッシュ上映する時に、僕のライブもいっしょにやろうよ。」と言ってくれたりした。

翌日ランチをいっしょにしようと約束していたがそれどころではなくなり、あがたさんに断わりの電話をかけ、

今晩新得に到着する岸本君を藤本さんに迎えに行ってもらうように頼んだ。

なんだかわからないけど、お腹は相変わらずで、体全体も重くゾクゾクして具合が悪かった。

気持ちは早く新得に行きたいのに、体が言うことをきかなかった。

一体今回のロケはどうなっちゃうんだろう。

結局この日と翌日のまる2日間、動くことができず寝たきりだった。

20005年7月26日。

夕方、宮下さんに電話する。

文代さんに岸本君にご飯を届けてもらうよう頼む。

藤本さんも札幌に出かけてしまい、足もなくあまり食料もないじいちゃんちで一人でいる岸本君はご飯どうしているのだろうと考えつく。

自分の具合の悪さでそのことに考えがおよばなかった。

2005年7月27日。雨。

11:00 少しフラフラした感じでじいちゃんちへ。

2日間寝ていたので仕方がないが、そのおかげで何とか動けるようになった。

お腹の膨満感もとれた。

岸本君はそうめんなどあるものを食べていたそうだ。

昨日の文代さんのご飯で、お腹一杯食べられたそうだ。

岸本君と今までの撮影項目を書き出す。

これから何を撮影していくかなどを話し、今回のロケの打ち合わせ。

13:00 昼ご飯をつくっている最中、ガスが切れる。

つくるのは断念して町へ出て、日晃スタンドでガスを10キロ(4千円)を買う。

夕方までに取り付けに来てもらうよう頼む。

新得駅前のみなとやで蕎麦を食べる。そして共働学舎のミンタルへ行く。

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空想の森便り 第6号 2005年8月

2005年8月 『空想の森』便り 第6号 監督 田代陽子

みなさん、こんにちは。

北海道はお盆を過ぎ、急に涼しくなってきました。

8月はぐずついた天気が続きました。少なからず、野菜の生育や味に影響があるようです。

それでも聡美たちが共働学舎でつくっている野菜たちは、今一番のピークです。

トマト、きゅうり、人参、ピーマン、なす、ズッキーニなどなど。

美味しくてしあわせです。

 

 

田代陽子の撮影日記 2005年6月23日〜7月7日

<第10回SHINTOKU空想の森映画祭2005を振り返って>

「すべては夢見ることから始まった」。

1996年、第1回目の空想の森映画祭のキャッチコピーである。

今思うと、この映画祭に参加したことが、私にとって、すべての始まりだった。

映画祭と出会って、私はドキュメンタリー映画づくりのスタッフになり、それと平行して、空想の森映画祭のスタッフにもなった。

映画づくり、映画祭を通して様々な人と出会い、スタッフたちといっしょに試行錯誤しながら、一つのものをつくってきた。

この10年、色んなことがあった。

もちろん、いいことばかりではない。

いつも何かしらの問題にぶつかっていたり、抱えていたり。

その時々で私は精一杯、問題に向かっていったつもりではいる。

映画の撮影では、2003年の春から、キャメラマンの問題などで撮影ができない状態が2005年の春まで続いた。

同じ時期、私は病気になった。

体の調子がとても悪く、心身共に悪い状態が長い間続いた。

2004年の9回目の映画祭は初めて休んだ。

そんなこともあり、10回目の今年の映画祭は、私にとって特別感慨深いものになった。

どうしても自分の映画祭は気合いが入ってしまう。

来たお客さん、ゲストの方々に気持ち良く楽しんでいってもらいたいという気持ちが強く働くからだ。

休んでいた時、こうあるべきだとか、こうしなくてはいけないという思い込みが強かったのではないだろうかという反省があった。

今年は、一映画祭スタッフとして10回目をやっていこう、そして楽しもうと。

そして今回は私も被写体になって、岸本君と一坪君に私たちの10回目の映画祭を撮影してもらおうと思って臨んだ。

 

映画祭はやっぱり楽しい。おもしろい。 2005年6月23日金曜日。 スタッフのまりんが、カフェで本部店のおでんの具の卵の殻をむいていた。

二人の年輩の女性のお客さんがやってきて、いっしょに手伝ってくれていた。

その一人の方が「あなた、田代さんでしょう?」と私に話しかけてきた。

9年前、美和ちゃん、有里ちゃん、美根、私の4人で結成した「ブラボー!茂の会」で開催した『阿賀に生きる』上映会・小林茂講演会に来てくれたお客さんだったことがわかった。

私はとても驚いて、同時にとても嬉しかった。

その9年前のイベントは、私が1回目の空想の森映画祭に参加して、小林茂さん(ドキュメンタリー映画『阿賀に生きる』のキャメラマン)と出会って、その時いっしょに映画祭に参加していた仲間四人で、その半年後の1996年11月に開催したものだった。

私たちにとって、自分たちで一からやった初めてのイベントだった。

その半年間は、開催に向けて私たち4人は毎日半徹夜状態で目一杯動き、それと平行して山に登ったり川で泳いだり月見の会をやったりと、真剣に遊んだ日々でもあった。

たった4人で始めたことだったが、プレイベントの上映会に250人の人たちが来てくれた。

来たお客さんの中に、上士幌高校三年の生徒たちがいた。

やっている私たち4人をみて心配になったのか、彼らが私たちが次にやる本展のイベントをいっしょに手伝ってくれると申し出てくれた。

そして私たちはその3ヶ月後の1997年1月、帯広の藤丸デパートで5日間、「小林茂写真展〜ウガンダに生まれて〜」を開催したのだった。

ウガンダから民族衣装や教科書やコーヒー豆を取り寄せて展示したり、取り寄せた豆を焙煎し、ウガンダのコーヒーを来たお客さんにふるまった。タイコのライブをやったり、写真展以外にも色んなことをやった5日間だった。

そんなことが走馬灯のように甦ってきた。

このご夫人たちはその後も、映画祭に何度か来てくれていたそうだ。

続けてきてよかったなあとしみじみ思った。

 

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