2004年7月 映画『空想の森』便り 第4号 監督:田代陽子
みなさん、いかがお過ごしですか。
御無沙汰しておりました。
便りが遅くなってすいませんでした。
2002年の冬から本格的に撮影をはじめ、登場人物人たちの仕事や暮らしの撮影、この映画をつくるきっかけになった空想の森映画祭の撮影、映画の舞台となる新得の森を冬に実際に歩いての撮影。
登場人物人の聡美さんや定岡さんの仕事場でもある新得共働学舎での撮影などを試みてきました。
去年の4月の以降、撮影を続けられなくなり、一時中断していました。
みなさんもご承知のように、協賛金を募りながら撮影をしてきました。
今まで200人を超える人たちの協賛をいただきましたが、その資金が底をついたという経済的な理由が一つと、撮影を重ねる度にどのように撮影を進めていくかということで、スタッフ間で意見の違いが際立ってきたことが、その大きな理由でした。
この間、スタッフで度々話し合いをしてきました。
そして、撮影の小寺君がやめることになりました。
大変残念ですが、残ったスタッフで新たに再スタートしたいと思います。
<映画『空想の森』製作体制>
プロデユーサー:藤本幸久、監督:田代陽子、撮影:大塚伸之、録音:岸本祐典
<資金>
基本的に一口一万円の協賛金を募っていく。助成金を申請する。
田代が、今まで撮ったフィルムを15分ほどに編集したラッシュ(音はない画のみのフィルム)を上映しながら、このような映画をつくっていきたいという話をして、協賛金を募っていくことをしていきます。
この時、森の映画社で製作したドキュメンタリー映画『森と水のゆめー大雪トムラウシ』、『闇を掘る』などの上映も可能です。
公民館、体育館はもちろん、映写機で上映できるスペースがあれば、個人の家でもやらせてもらいます。
どこでも行きますので、このような映画に興味のありそうな方をぜひ紹介して下さい。
【田代の近況報告】
私事ですが、去年の秋頃から体調が悪くなり、久しぶりに病院に行ってみると子宮筋腫という病気でした。
自分でも弱ってるなと感じたし、体の具合がとても悪かったので、しばらく養生しようと思いました。
3月くらいから約3ヶ月間ほど療養生活をしてみることにしました。
食事と生活習慣に関する医師の指導を、この際だから自分で徹底的にやってみました。
規則的な生活と食事。不安や焦りとも付き合いながらも、確実に体調は良くなっていること実感してきました。
自分で体のバランスをとることができるようになり、さあ、またやっていこうか!というところにようやくこぎつけました。
これから自分のいいペースをつくりながらやっていきたいと思います。
第9回SHINTOKU空想の森映画祭さよならパーティーにて
そんな訳で、私は今年のSHINTOKU空想の森映画祭はお休みし、最終日のさよならパーティーにだけ顔を出しました。
校庭でいつものようにスタッフの西村堅一さんが大きな木で、でっかい焚き火をつくっていました。
まずは西村さんとワインで乾杯。
3年くらい前の映画祭の時、おっちゃん(斉藤修さん)と西村さんでつくったレンガの窯のまわりでは、おっちゃんがパーティの料理準備をしています。
定岡さん、共働学舎の山田圭介も楽しそうに手伝っています。
テーブルには山田聡美さんがつくったレタスなど、野菜が大きなザルに盛られています。
本部店には、第2回目からこの映画祭を手伝っている野田草悦君が座っていました。
去年よりもずっとたくましくなっていてびっくり。もう中学生になったのでした。
お父さんのねこまたやさん(野田尚さん)はパーティの準備でおおわらわ。
柏の木の下ではきれいな色のチマチョゴリを着た人たちが座っていました。
その中から「陽子ちゃん。」と声をかけられ顔を見ると、「たう」の波多野信子さんでした。
髪を短く切っていたので、すぐにはわかりませんでした。
本当に久しぶりだったので、私も座って話をしました。
気がつくと隣にいんであん(芳賀耕一さん)がビールを片手に楽しそうにニコニコ座っていました。
校舎からあがた森魚さんが出てきました。握手をして再会を喜び、近況などを話しました。
あがたさんのマネージャーの倉科杏さん、映画祭スタッフの箕浦伸雄さんとも、会えてよかったとひとしきり話しました。
西村マサ子さんも家でつくった料理を持って元気にやってきました。
受付には宮下喜夫さんの娘、亜海ちゃんが座っていました。
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