映画「空想の森」便り 第3号
2003年3月
監督:田代陽子
みなさん、こんにちは。
2003年になり、いよいよ映画『空想の森』は本格的な撮影のスタートを切りました。
先月の2月17日〜28日のロケの様子を報告したいと思います。
今回は、主な登場人物の一人、安田有里さんを中心に撮影をしました。
彼女は十勝の帯広市の隣、芽室町に住んでいます。
6年間、北海道国際センター帯広で働いていました。
そこは世界各地からやってくる研修生の宿泊施設で、彼女はフロント業務が主な仕事でした。
安田さんは、様々な国の研修員たちを笑顔で迎え、時にはその国の文化を十勝の人たちと体験できる催しを企画したり、いっしょに参加したりこの仕事を楽しんでいました
。彼らが快適に過ごせるよう、そして北海道に十勝に来てよかったと思えるよう心をくだき、いつも研修員の立場に立ち、誇りをもって働いている姿を、私は友だちながら素敵に思っていました。
安田さんのおかげで私も自分の暮らす十勝で、様々な国の人たちとかしこまらない楽しい交流をさせてもらったことは、今もいい思い出です。ニカラグアの研修員の方に、コーヒー豆の焙煎のやり方を教わり、自分達で焙煎したたコーヒーをみんなで飲んだり、インドのサリーを着せてもらったり、研修員の人たちと山登りに行ったりとずいぶんと楽しませてもらいました。
また、安田さんはアフリカの太鼓「ジンベドラム」のライブ「タイコの時間」を中心になって企画し、勤め先の国際センターでも、何回か開催しました。十勝界隈では、ジンベドラムもだいぶ知られてきて、毎回楽しみに来てくれるお客さんも少なくありません。
センターには、アフリカの国からの研修員も多く、それはもう、踊って歌って楽しいライブになるのでした。
昨年、彼女はその仕事を辞めました。
そしてすぐに帯広で行われた現代アート展、「デメーテル」で総合案内や関連イベントの企画、開催などの仕事をして働いていました。
それも終わり、現在は次にどうしていこうかと色々考えているところにいます。
仕事、空想の森映画祭をはじめ、今までいつも何かしらイベントを抱えて忙しく走っていた安田さんが立ち止まり、これからのことを考えたり、自分の暮らしを楽しみながら、少しだけゆったりと過ごしているそんな時期に撮影をさせてもらいました。
●田代陽子の撮影日記●
2003年2月17日(月)朝、少し雪、晴れ
帯広で当面の食料の買い出しをして、新得町新内の宿舎(故小川豊之進さんの家)へ。
私たちは「じいちゃんち」と呼んでいる。
ドキュメンタリー映画『森と水のゆめ』(藤本幸久監督、田代陽子は助監督)の主人公が故小川豊之進さんだった。
私たちはじいちゃんと呼んでいた。
じいちゃんが亡くなり、誰も住む人がいなくなった家を、撮影の時にスタッフの宿舎として貸してもらっている。
今年はこれまで2回、大雪が降り、今は誰も住んでいないじいちゃんちは、雪に埋もれている。
私の手ではとても除雪はできないので、前もってじいちゃんの次男で新得町に住んでいる進さんに除雪をお願いしたら、快く引き受けてくれる。
進さんは除雪機をもっているのだ。
じいちゃんの長女、まさ子さんのつれあいの西村さんも、私たちが撮影に入る前に除雪をしてくれた。
そのおかげで道路から玄関までと、玄関から薪小屋までがスムーズに通れるようになっていた。感謝。
まずは薪小屋と母屋をなん往復かして母屋に薪を運び込む。
ここは薪ストーブがメインの暖房なのだ。がんびを多めに入れ、とにかくガンガン火をたく。
「がんび」とは白樺の幹の皮で、ほんの少しですぐに火がつく。焚き付けには最高なのだ。
しかし、冷えきった家はちょっとやそっとでは暖まらない。
次は水だ。
北海道では冬の間、水道管の破裂を防ぐため、全ての蛇口を全開にして水の元栓を閉めておくのだ。
これを「水落とし」という。
しばらく留守にする時や、断熱材のあまりない昔の家などは、毎晩この作業をしなくてはいけない。
この逆の作業をして、水落としを解除。
よかった、水が出てきた。茶色く濁った水なのでしばらく出しっ放しにしていた。
しかし廃水管の水が溜まってしまう部分が凍っていたのだろう。
廃水が流れていかず、シンクに溜まってしまう。これは家を暖めて氷が解けるのを待つしかない。
そうこうしているうちに撮影の小寺君が来た。
ボイラ−と洗濯機を使えるように作業をする。
ボイラーは使えるようになったが、管から水が漏れてくる。
困った時にはいんであん。
小寺君が電話して、いんであんが今晩ボイラーを見に来てくれることになる。
西村さんも様子を見に来てくれた。
今晩は煮炊きができないだろうからと、自宅に晩ご飯を食べにおいでと誘ってくれる。
本当にありがたい。私が携帯電話を持っていないので、何かあった時に連絡がとれるようにとハンディー無線を置いていってくれる。
夕方頃、家が暖まってきて、ようやく廃水の氷が解け、水が流れていく。
小寺君と二人で喜ぶ。
間もなく録音の岸本君、撮影助手の大塚君が到着。
彼らは舞鶴からフェリーで小樽に着き、藤本さんが車で迎えに行き、札幌で機材を借り、そして新得に着いた。
まだ雪深い中の長距離運転、本当にご苦労様。
スタッフたちが機材を家の中にどんどん運び込む。
毎回そうなのだけど、私はこれらの機材が運び込まれるのを見ると、気持ちがぎゅっと引き締まる。
今回もいい撮影をするぞ!と。
一段落してお茶を飲みながら、今回のロケ全体のスケジュールなど、簡単にミーティングをする。
6時過ぎ、ここから車で15分ほどのところにある西村さんの家へ。
お腹一杯食べさせてもらい、お風呂も入らせてもらう。
明日の朝食も持たせてくれた。
岸本君、大塚君が長旅で疲れているので、早めにおいとまする。
9時頃、いんであんが来てボイラーを見てくれる。
あっという間に直してくれた。
ただ、まだ少し水が漏れているのは、ゴムのパッキンが劣化しているため、取り替えた方がいいだろうということに。
それは時間のある時いんであんに直してもらうことにした。
10時半頃まで薪ストーブを囲んでいんであんとおしゃべり。
いよいよ撮影が始まるのだ。
11時にはみんな寝る。
2003年2月18日(火)晴れ
明け方4時半頃、ひどく寒くて目が覚める。
こんな寒さは何年ぶりかに体験する。
水落としするのを忘れていたのを思い出し、決死の覚悟でふとんを出る。
すっかり火の消えた薪ストーブに薪をくべ、火をおこす。
今回は真冬の撮影をしたかったのもあって、この時期にロケを組んだのだが、2月に入ってなんだか春のような陽気になってきた。
このまま春になってしまうのかなあと思いきや、やはりそうはいかない。
今朝は久しぶりにしばれた。
マイナス20度以上だった。
昨晩マサ子さんからいただいてきたおにぎりなどで朝食をすませ、撮影、録音の機材をそれぞれチェックし、撮影の準備にかかる。
昼は豚汁。
午後は明日からの撮影のミーティング。
今回は短い期間だけど、安田有里とつき合い、今の彼女をゆったりと撮影をしようと。
夕食はカレーライスを作る。
私は空の炊飯器の方のスイッチを入れてしまい、晩ご飯を食べられずに帯広へ向かうはめになった。
私、安田、定岡、聡美、そして私たちのタイコの先生のまさしと5人で、2月21日に帯広のひかり保育所で行うジンベタイコのライブの練習のためだ。
このライブは今回撮影をする。
最近私たち4人は、まさしにお願いして、月1回ジンベを教えてもらっている。
自主練習もやり始めた。私たちはジンベを始めて5年くらいになる。
その間、クラスで教えてもらったり、人前でたたいたりする機会があったりして、ジンベのおもしろさ、奥深さがようやく少しだけわかってきたところだ。
ジンベをいっしょにたたいてる人と、そして、お客さんと気持ちがいっしょになった時のなんとも言えない感覚を、ほんのちょっとだけ味わった。ジンベはコミュニケーションの道具だ。
人とのコミュニケーション、それは一人ではできない。
それをするには自分自身を解放することが必要だ。
そうでないといっしょにたたいている人とも、聴いている人ともコミュニケーションはとれない。
私にはまだまだそれができない。
しかし私は遅ればせながら、そういうことがだんだんと体でわかってきた。
去年の夏に残念ながら私は行けなかったが、富良野の保育所で小さい子たちの前で演奏したのがとてもよかったので、またやりたいねという話になったのだ。
それで帯広のひかり保育所に話をしてみたら、ぜひやって下さいということになった。
ここは共働学舎のやさい屋でも引き売りに行くところだ。
19時〜22時、帯広のサラダ館の部屋を借りて、全員そろっての最後の練習。
当初は4曲くらいやろうと話していたのだが、20分という短い時間でやるのだから「ジャンボ」と「カキランベ」の2曲に絞ることにした。
いかにその曲のノリを出すか、「グン」(低音)と「ゴド」(中音)と「パ」(高音)の音をいかにクリアーに出すか、これが私たちの大きな大きな課題なのだ。
安田さん、定岡さん、聡美さんもかなりのっていて、中身の濃い、いい練習であった。
練習後、私はお腹がすき過ぎて居酒屋「元」に寄る。
ママに明日の朝食の弁当もつくってもらい帯広の自宅に戻る。
明日は母の誕生日だ。撮影で電話ができないのでカードを書く。
2003年2月19日(水)快晴
雲一つない快晴。気持ちのいい朝だった。
いよいよ撮影だ。
まずは安田さんの昼食の様子を撮らせてもらう。
私は11時40分、安田宅に到着。撮影隊は12時に来る予定だ。
二人でお茶を飲みながら世間話。今日は安田さんにとって、自分一人だけを時間をかけて撮られる初めての撮影だ。
ここまできたら、私は安田さんがなるべく緊張しないよう心掛けるだけだ。
彼女は1年程前から芽室町の実家近くのこじんまりした木造平家の一軒家で、一人暮らしを始めた。安田さんが時間ができてからは、この家にみんなで集まることが多くなってきた。
私も何回も泊めてもらっている。彼女は人をもてなすことが好きな人で、私が泊まりにいくと手作りの食事をつくってくれる。
そして一緒にお酒を飲みながら、色々なことを話したりゆっくり過ごすのは、私にとってとても大事な時間でもある。
朝食はたいがい玄米、味噌汁、野菜の和え物、漬け物などの和食で、これも私は嬉しい。
キッチンのたたずまい、リフォームした昔の木の棚、こたつの部屋においた座り心地の良い茶色いソファーなど、最近どんどん安田有里らしい部屋になってきている。
私はこの撮影を決めるまでの間、何度となく彼女と色んな話をしてきた。
この映画をどんな映画にしたいのか、どういう風につくっていきたいのか、安田さんのどんなところを撮っていきたいのかなども、その折々話してきた。
撮られる人にも心の準備が必要だ。
「さあ、撮ってもいいよ!」という気持ちになれなければ、私は撮影はできない。
その時期が今回になったわけだ。
撮影に入る前、私は彼女の家に泊まりに行き、スケジュールなど細かいことを話した。
その時、安田さんが私にこう言った。
「陽子ちゃん、今回の撮影の間、いつでもスタッフといっしょに泊まりに来てね。
私も岸本君や大塚君とあまり話したことないし、撮影されるなら色々話して、どんな人か知りたいし。もちろんご飯付きだよ。」と。
安田さんが撮られてOKという気持ちになったということ、そして撮影を最優先に考えてくれていることに、私はとてもとても嬉しかった。きっといい撮影ができると、私は一人思うのだった。
12時。撮影隊到着。
次々と機材を運び込む。あらかた撮影の準備が整い、安田さんもいしょに、みんなでお茶をいただき一呼吸。
13時少し前、安田さんが昼ご飯をつくりはじめる。
撮影開始。
この日のメニューは玄米、味噌汁、長いもの梅肉あえ、押し大豆と野沢菜の炒めもの、イモの煮つけ。
いつも作っているものなのでなかなか手早い。時間がたつにつれ、キャメラにも慣れてきたのか、私に話しかけてきたり。
大きな窓から射し込む冬の柔らかい光の中、安田さんがごはんをつくり、いつものように窓辺のテーブルで食べる。
いい感じだ。
撮影終了後、私たちもお昼を食べさせてもらう。撮影隊のために多めにつくってくれ、若者のためにもう一品、豚肉の炒めものもつくってくれた。押し大豆は初めて食べた。
十勝ならではの食材だ。
長いもの梅肉あえは私の大好物。
お腹一杯食べさせてもらう。
散歩の撮影のロケハンへ。
安田宅から芽室公園を抜け、住宅街を通って帰ってくる30分くらいのコースだ。
今日は天気がよいので、日高山脈がきれいに見える。
安田さんが小学校の頃、毎日帰りに寄っていたという駄菓子屋さんの前を通るので、中に入ってみた。
すると、なつかしい駄菓子がびっしりと店いっぱいに並んでいた。
当たり付きのフィリップガム、コーラ味のラムネ、うまい棒などなど。
岸本君と大塚君はたくさん買い込む。
岸本君が録音の道具やガムテープなどを腰にぶらさげ、現場のいでたちでいると、駄菓子屋のおばちゃんが、「お兄さん、そのガムテープをぶら下げているのは今流行っているファッションかい?」と言ったのにはみんなで笑った。
安田さんの家に戻ると、コーヒーを入れてくれる。
16時半過ぎ、私たちはひかり保育所へロケハンのため帯広へ向かう。
ここから20分ほど車で行く。
ちょうど夕方で、ぽつぽつと仕事を終えたお母さんたちが子供を迎えに来る時間だった。
子供たちは思い思い、好きなところで遊んでいる。生まれて半年の赤ちゃんから、6才の子まで20人ほどの子たちがここに預けられている。
地下があったり、2階、2階と中間の高さなどにスペースがあり、階段などなく、はしごや角材でつくった足掛けを使って、登ったり降りたりしている。
全体にカラフルで、高い天井には透明なもので明かりとりがありとても開放的な空間だ。
大人の私でも楽しい建物だ。
保育所の保母さんたちもライブを楽しみにしてくれて、色んな人に声をかけてくれている。
この子供たちが初めて聴くジンベにどんな顔するのか、私も今からとても楽しみになる。
そして新得のじいちゃんちへ帰る途中の新得のフクハラで、私と大塚君は今晩なににしようかと言いながら、明日の昼の分までの買い出しをする。
撮影助手の大塚君は料理がうまい。
だからなのか自然にご飯づくりの中心人物になっている。
今晩は鳥肉の鍋になった。
とても冷える夜だった。
じいちゃんちに着くなり、岸本君はライトを持って薪小屋へ薪を取りに行く。
大塚君は鍋の準備にとりかかる。
彼らもここでの合宿生活も板についてきたなあと私は思う。
一つ屋根の下での共同生活は色々とやらなくてはいけないことがある。
薪運び、ゴミすて、掃除、洗濯、食事づくり、食器洗い、水落としなどなど。
仕事以前の大事なことが、みんな自然に分担してできるようになってきたのだなあと。
晩ご飯の準備ができた頃、藤本さんがやって来た。
いっしょに鍋を囲む。
その後、藤本さんも交えて、今回の撮影の打ち合わせ。
私たちは今日の撮影の反省会もする。
「いい感じで撮影できた。」と撮影の小寺君。
撮影初日、いい気分で一日を終えることができた。
2003年2月20日(木)曇り、たまに薄日、時々小雪
8時起床。
パンとコーヒー牛乳で軽く朝食。9時半、2月27日の映画「空想の森」十勝応援団立ち上げ式の時見せるラッシュの編集のため、森の映画社へ。
ステインビックでの編集作業を岸本君に手伝ってもらうことにした。
撮影を重ねるうちに私は、スタッフ間のコミュニケーションが映画にとって大事なことだと感じてきている。
スタッフ一人ひとり違う人間で、感じ方、考え方も当然違う。
でも、いい映画をつくりたいというその一点はいっしょだ。
現場でもそれ以外のところでも、自分の思ったり感じたりしたことを、他のスタッフにも伝えたい、伝えようとする意識を持つこと、これを私は今回の課題とした。
そうしていくうちに、現場で何も言わなくともスタッフ同士がお互いの思っていることを感じとり、スムーズな撮影ができるようになっていくと私は思うからだ。
一人でなくチームでつくっている醍醐味を味わいたい。
映画はつくる側の人間、カメラの前に立ってくれる人、そして見てくれる人のものなんだ。
岸本君はこの映画のスタッフになってきたなと私は思う。
撮影の度に監督の私の考え、この映画で録音としての自分のやりたいことなど彼なりに考えてきて、それを次の撮影で試している。
私は彼を見ていて「おお、今回はそうくるかー」といい刺激になり、「私もやったるわい!」と思うのだった。
お昼ご飯は、じいちゃんの家に食べに戻る。
大塚君が昨晩の鍋の残りでうどんをつくってくれる。
13時半、森の映画社で編集作業の続き。
「田代さん、音もつけてみましょうよ。」と岸本君。今回のラッシュはカットも切って、音も、つけられるところは何ケ所か手動でつけることにした。
18時、区切りのいいところで終え、みんなで安田さんの家へ向かう。
今日は泊まらせてもらい、翌日は安田さんの朝の散歩の撮影をするのだ。
途中、西村さんの家に寄り、マサ子さんからの食べ物の差し入れを受け取る。
安田さんの家に到着。早速夕食をおいしくいただく。
十勝名物の豚丼、大根サラダ、味噌汁。
夕食後、片付けをしていると安田さんが「昨日は楽しかったよ。思ったより固まらなかった。」と一言。
お風呂は近所の温泉にみんなで入りに行く。寒いけれど、星がとてもきれいな夜だった。
きっと明日は天気だろう。安田宅に戻り、スタッフは早めに就寝。
「陽子ちゃん、ワイン飲まない?」と安田さん。
最近の安田さんを見ていると、いいことあったんだろうなあと思っていたがやっぱりあったのだ。
そして飲みながら近況など色々話す。
安田さんは、つい最近学生時代の友人に札幌で久々に会ったそうだ。
彼女の長所の、自分の目で見て自分で考えて行動していく姿勢が今も全く変わっていなくて、とても嬉しくなったそうだ。
これからも彼女にずっとそのままでいて欲しいと思ったという。
その帰りの汽車の中で自然に顔がニコニコしてしまったそうだ。
私も安田さんに対して、そっくりそのままそう思うのであった。
春に向かって安田有里も確実に前へ歩いている、そんな感じがした2月の夜だった。
明日はいよいよ安田さんの朝の散歩と、ひかり保育所のジンベライブの撮影だ。
2003年2月21日(金)快晴
5時50分起床。
安田さんもいっしょに起きてくれて、コーヒーをいれてくれる。
雲一つない快晴。
6時過ぎ、日高山脈と芽室町の町並みが見渡せる白樺通りの橋へ向かう。風景の撮影。
朝日独特の光を放ちながら、太陽が私たちの背中から昇ってくる。
マイナス17度。寒さの張りつめた空気の中、日高山脈がビシっとそびえている。
ピンクに染まり、刻々とその色を変えていく。
いつみても日高山脈はいいものだ。
撮影が終わり、安田宅へ戻り、そのまま朝の散歩の撮影。
安田さんは一軒家に越してきて、時間ができてからは近所を天気のいい日は散歩をするようになった。
彼女の住む芽室町のこの辺りは年輩の方々が多く、安田さんのところの娘さんとして、近所の人たちは彼女を気にかけてくれる。
安田さんの実家は、この町で昔からガソリンスタンドをやっているのだ。
家の脇の小さな畑を世話する時間もないほど忙しかった去年の夏、近所のおじさんが面倒みてくれたり、大雪が降ってスコップで雪かきをしていると、機械でやってくれたりと、色々と親切に世話をしてくれるそうだ。
周りの人たちがとてもいい人たちで、彼女はここをとても気に入っているのだ。
朝日を浴びながら散歩する安田さんを撮影。
芽室公園。昨日の晩に降ったのだろう新雪が一面にピカピカと光っている。
後ろを振り返ると、録音の岸本君が道路の脇の雪の深いところにはまってコケている。
ばつが悪そうに笑っている。
その姿を見てみんな思わず笑う。彼はロケ中に一回はみんなを笑わせてくれる。
「駄菓子屋に入ってみる」と安田さんは店の中へ。20年ぶりだそうだ。
しばらくしてイカを買って出てきた。
串に刺さったイカが小学生の頃自分も弟も大好きだったので、お母さんが箱で買っていたそうだ。
そのイカを食べながら9時半頃家へ戻る。
安田宅で機材の整理を終え、横になってひと休みさせてもらう。
そしてライブの撮影の前に最終ミーティング。
13時半頃、撮影隊はひかり保育所へ向かって出発。
着いてすぐ土手から保育所の全景を撮影。
そして建物の中へ。
13時から15時はお昼寝の時間。子供たちは色んなところに寝ている。ライブは15時からだ。
私たちはタイコの音で子供たちを起こそうと考えていた。
子供たちを起こさないように静かに撮影の準備をする。
でも一人二人と子供たちが起きてきて珍しそうにキャメラや私のジンベを見ている。
14時半、安田さん、まさしもタイコを抱えてやって来る。少し遅れて定岡さん、聡美さんも到着。
その頃には子供たちのほとんどが起きてきて、キャッキャッと遊び始めている。
父兄も何人か見に来ている。上士幌町から友人の有ちゃんも差し入れを持って見に来てくれた。
朝日新聞の記者の木村さんの顔も見える。
演奏者5人がそろったので、音のチェックでたたき始めた。
今まで賑やかだった子供たちが、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして固まっていた。
初めて聴くジンベの音はとてつもない大きさで小さな体に響いたのであろう。
一方私たちの方は、タイコの音が意外にもずいぶん建物に吸収され、音が小さく聞こえて他の人の音が聞こえづらいことがわかり、こりゃ、大変だという感じであった。
しばらく音を出した後、本番に突入。
聡美さんのジンベとまさしのジュンジュンが鳴り出す。
マラカスなどの鳴りものを持った安田、定岡、私が「ジャンボ」を歌い出す。
「こんにちは!ケニアはいいところだよ。何も問題ないよ」という意味の歌だ。
なんだ、なんだという感じで子供たちは見ている。
子供たち全員がそろい、しばらくして歌を終える。
安田さんが歌の意味やジンベについて子供たちに話を始める。
安田さんの問いかけに、男の子がかわいらしく答えている。
彼女はとても楽しそうで気持ちがのっている。
私たち4人でやる時は「サワサワ」というグループ名でやっている。
スワヒリ語で「気持ちがよい、問題なし」という意味。
サワサワという言葉の響きが気に入っている。メンバーひとりひとり自己紹介をする。
2曲目、「カキランベ」の演奏。
今年も豊作でありますようにという祈りの曲だ。
今度は全員でジンベをたたく。
始めはゆっくりとしたテンポでだんだん早いリズムになっていくように構成した。
子供たちはだんだん音に慣れてきたのか、始めの表情とはずいぶん違ってきて楽しんでいる様子。
早くなり過ぎて聡美さんは必死の形相。
私も大汗をかきながらタイコをたたく。ライブ後、岸本君に「ひとりひとり個性がでるものですねえ。」と言われる。
最後のキメをコケてしまったが、ライブ終了後、すぐに子供たちがタイコの周りに集まって来る。
触ったり、たたいたり、ひとしきり遊ぶ。
安田さん、定岡さんも子供たちにタイコの叩き方を教えたりお話したり、やわらかい表情。
保育所の先生方もとっても喜んでくれて、また夏祭りでやってくださいと言ってもらったり、他の保育所の先生にも、ぜひうちでもやって欲しいと言われる。
私たちの力不足がよーくわかった演奏だったが、やってよかったと思った。
子供たちも先生たちも楽しんでくれたし、私たちも楽しかった。
これからも練習を重ねて、またぜひライブをやりたいと思った。
夕方、新得へ帰る。
夕食をつくり、食べた後、反省会。
タイコライブの撮影が初めての岸本君、録音のやり方を考え過ぎてうまくいかなかったところがあり。
明日は午前中、共働学舎の冬の様子を撮影することにした。
長い一日だった。
今回の撮影の一つ目の山場を越えた。早めにみんな就寝。
2003年2月22日(土)晴
6時半起床。
軽く朝食を食べる。
今日は冬の様子を撮影しようと共働学舎へ。
朝日の中の食堂を外から撮影。
牛舎、雪の埋もれている畑やハウス、牧草地など撮影しながら歩いて回る。
9時半頃終了する。
共働学舎代表の宮嶋望さんの妻の京子さん、その長女で現在東京で暮らし、今ちょうど帰ってきている杏奈さんに食堂の前でばったり会い、少し立ち話。
久しぶりに会った杏奈さんは元気そう。
京子さんも嬉しそうだ。
食堂に入り、コーヒーをご馳走になる。
帰りに駅前のフクハラで食料を買う。
お昼、大塚君が焼そばをつくる。
少し休んで2時半頃、私と岸本君は編集作業をやりに、森の映画社へ。
私はサラダ油を買うのと、撮影済みフィルムを東京の現像所へ発送するため、再び町のセイコーマートへ。
帰りにヨークシャーファームでスノーシューを2つ借りてくる。
藤本さんが映画『闇を掘る』の上映会でスプライサー(フィルムを切ったりくっつけたりする道具)をいっしょに持っていているため、編集ができないことに気がつく。
25日には帰ってくるので、それまではフィルムを見るだけしかできない。
今日の夕食は大塚君がハンバーグとシチューをつくると言っていたので、聡美さんの夫、憲一さんを夕飯に誘った。
いつも山田家でご飯をご馳走になっているので、たまには撮影隊が食事に招待したいと思ったからだ。
今、聡美さんは山形へ農業の勉強会に行っていていないのだ。
7時半頃、私たちは宿舎のじいちゃんちに戻る。
大塚君は夕食の支度をあらかた終えている。
間もなく憲一さんもやって来た。
私たちは人からいただいたワイン1本しかなく、それは当然5人であっという間に飲み干す。
憲一さんを呼んでおいて、私はすっかりお酒のことを忘れていた。
ロケ中はお金がないのもあるが、ほとんどアルコールを飲んでいなかった。
あれば飲むだろうけど、なければないでどうしても飲みたいと思わなかったので、アルコールのことがすっかり頭から抜けていたのだ。
撮影隊を不憫に思った憲一さんが、「家にビールがたくさんあるから持ってくるよ。」と言ってビールを取りに行ってくれる。
戻ってくると、ビールと木の箱に入った上等なタラコと凍ったタコ、豚肉を持って来てくれる。
一同歓声をあげる。やはりビールはうまかった。
ハンバーグとシチューもなかなかのものだった。
憲一さんのタラコは炊きたてのご飯にのせ、溶かしながら食べた。
絶品。こんなおいしいタラコは生まれて初めてだ。
みんなでおいしく夕食をいただく。
憲一さんを招待したつもりが結局食べ物や飲み物を色々と持って来てもらい、なんだか悪かった。
また今度、ちゃんと憲一さんを招待しよう。
今回のロケは期間が短く忙しいスケジュールなので、ここらで少し休まなくちゃということで、翌日は午前中だけ休みにした。
この晩、3時過ぎまで憲一さんと話しこんだ。
2003年2月23日(日)晴
私は10時半頃起床。
みんなはもっと早くから起きていたみたい。
大塚君がスクランブルエッグ、キャベツの千切り、パンで朝食の用意。
今日は「空想の森オールスターバンド」の初顔合わせ兼練習?を安田宅でするのだ。といってもメンバーはたくさんいて、みんな都合のいい時間にバラバラと集まって来て、ご飯食べたりお酒飲んだりしながら、興がのったらやりましょうかというゆるい感じの集まりだ。
そんな感じなので、撮影隊もこれに付き合いながら撮影をした。
最近安田さんが「オー!デクノボウ」という音楽グループのメンバーになった。
野田聡子さんがリーダー。
彼女は帯広で夫とレストランをやっていて、羊の毛を使ってモノづくりをしたり、そのワークショップをしたりもしている人だ。
その彼女が最近音楽に目覚め「オー!デクノボウ」を結成して安田さんを誘ったのだ。
安田さんはジンベ、西村君はギター、おっちゃんはハーモニカ、聡子さんは笛というほんわかしたユニークな取り合わせのメンバーで、色んな音楽を楽しんでいる。
そして、聡美さん、憲一さん、西村君、圭介さんの「新得バンド」、安田、定岡、聡美、私の「サワサワ」も時を同じくして、偶然このところの活動が活発になってきたところだった。
「じゃあ、今年の空想の森映画祭でそれぞれのバンドでもやりたいけど、みんなでオールスターバンドとしてもやろうよ!」ということになったのだ。
私たち撮影隊は14時、安田宅に到着。すでに憲一さん、西村君が来ていた。
定岡さん、てっちゃん、三田村君、おっちゃん、瀬川さんもぞくぞくとやって来る。
これだけ人が来ると人口密度がすごい。
ビールなど飲み、食べ物をつまみながらワイワイとにぎわう。
私たちサワサワは昨日のライブのことで話に花が咲く。
聡美さんは昨日のライブが終わってから列車に飛び乗り、山形へ農業の勉強会に行ったのでいない。
そのうちドラム、キーボードなど、わらわらと部屋に運び込まれ、瀬川さんがキーボード、西村君がギター、憲一さんがサックスを吹き出す。
安田、定岡、私もジンベで参加。
途中でビールを飲みに離れたり、誰かとおしゃべりしたりしながら出たり入ったり、違う楽器をやってみたりしながらも、音が途切れることはない。いい感じなので撮影も始める。
私はこんな感じで音楽をやるのが初めてだったので、とてもおもしろかった。音楽に縁がなく何の楽器もできなった私が、今こうして楽器を鳴らしたりして友だちといっしょにやっていることが、なんだか不思議な感じもするし、とても嬉しくもある。
私は、ドラムのシンバルをスティックでたたいてリズムをとることを西村君に教えてもらう。
西村君はギターがとても上手で何でも弾ける。
このバンドのバンドマスターは彼だ。
私はおもしろくて調子にのってやっていると「なかなかうまいね」と西村君に褒められ、さらに調子が出てくる。
安田、定岡もとっても楽しそう。
18時もまわりお腹もすいてきて、安田さんが晩ご飯の支度をはじめる。
玄米まぜご飯、チャーハン、ちくわぶなどなど。
一度楽器を片付け、テーブルを二つくっつけて総勢13人で晩ご飯を食べる。
大勢で食べるのは楽しい。
食べてるところも少し撮影する。
明日いよいよ安田有里の話しの撮影なので、撮影隊はご飯を食べ終わって先においとまする。
私たちが帰る時、入れ違いで聡子さんがやって来る。これからも音楽は続くのだ。
2003年2月24日(月)晴
私は10時過ぎ起床。
今日もいい天気だ。朝風呂に入り、朝食。パン、コーヒー、目玉焼き、白菜のおひたし。
いよいよ安田有里の話しの撮影だ。
12時に安田宅へ出発、途中西村さん宅に寄る。
14時到着。彼女は「しゃべることは苦手だから」と前から私に言っていた。
インタビューではなく、いつも私と話してるように話せばいいからと私。
二人でいつも話している感じで撮りたいと私は思うのだ。
今回は、安田さんに撮影に慣れてもらう意味もあって、この撮影の前に普段のことやジンベのライブの撮影を組んだ。
その中で話をしたりご飯をいっしょに食べたりして、スタッフとも慣れてもらえればいいなあと思っていた。
今回は、何でタイコが好きなのかなど聞いてみた。
こたつに座って、レコードやアフリカに行った時の写真を見せてもらいながら話しをする。
始めは緊張してたようだけど、だんだんいつもと同じ感じになってきて、今の安田さんの感じがとても出ていたように思った。
〜安田有里さんの話し〜
小学生の頃、クラスにアイヌの子がいた。普段はみんな仲良くいっしょに遊んでいるのに、時として急に、アイヌだからとその子をいじめたりすることがあったそうだ。
安田さんはなんでその子をいじめるのか、全くわからなかったし、とても嫌なことだったそうだ。
でも、そのいじめを止めさせることはしなかったし、いじめられている子のそばについてあげることもできなかった。
とても嫌な思いだけが、重く心に残った。
大学生くらいになると、音楽がとても好きになった。
R&B、ソウル、ジャズなどの黒人の音楽が特に好きだった。
しかし、その一方で、黒人差別はその頃も歴然とあったし、ロスで黒人の暴動があったりした。
どうして黒人は差別されたり、下に見られているのかが彼女は理解できなかった。
素晴らしい音楽をつくり、演奏し、歌う人たちが、なぜ差別されているのか、自分の実感としてわからなかった。だから、その黒人が元々暮らしていたアフリカ、もしくは、激しい差別を受けているアメリカの南部へ行って、実際黒人の人たちがどのように暮らしているのかを、自分の目で見てきたいと思うようになった。
映画でも、スパイク・リー「Do the Right Thing」や「ルーツ」などを見ていた。
そんな短大2年生の頃、レコード屋さんで、ある一枚のアルバムに手が吸い寄せられた。
おおげさでなく、本当に吸い寄せられたそうだ。
そのレコードはミリアム・マケバのライブアルバムだった。
そのジャケットは、いい顔をしたどっしりとした黒人の女性が歌っているものだった。
なかなか魅力的なジャケットだ。
後で知ったのだが、この人はアフリカのママと呼ばれているくらい有名で素晴らしい歌手だった。
南アフリカ出身の彼女は、アパルトヘイトに反対した。故郷と歌を愛する彼女は、その影響力が大きいために亡命させられたのだった。
その曲の中に、今は私たちもよく知っている、「マライカ」があった。
その頃はそのような歌を全く知らなかった安田さんだが、ジャケットを見てすっかり気に入り、買って帰った。
全ての歌が好きになり、何回も繰り返し聴いた。その中で歌のバックに聞こえるタイコの音がとても好きになった。
そしてタイコを習いたいと思うようになった。
アフリカではタイコで会話をしているとか、村と村の間での通信手段としてタイコを使っているとか、人々はストレートに自分の感情を出す、ということなど、本を読んだりして想像をふくらませ、ますます実際の人々の暮らしを自分の目で見たいと思うようになった。
英語の先生をして働いていた22才の時、アフリカの人々はどんな暮らしをしているのか自分の目で見たい、タイコを習いたいということで、アフリカのことを調べたり、行ったことのある人から話を聞いたりして準備をすすめ、会社を辞め、親を説得してアフリカのガーナへ旅立った。
ガーナでホームステイしながら、半年ほど暮らした。
タイコや踊りを教えてくれる人を探して習ったりもした。
結婚式やお葬式の時など、楽しい時も悲しい時もタイコはあった。
人々の日常の暮らしの中にタイコや踊りが息づいているのだった。
自分の暮らしの中に音楽があふれているってなんて豊かで素晴らしいんだろうと。
そんなガーナで過ごしているうちに、日本での自分の暮らしを振り返って考えるようになった。
そして、私はアフリカでタイコを習って、日本に帰って一体どうするんだろうという気持ちも一方で抱えながら帰国したのだった。
アフリカから帰国した安田さんは、音楽が自分の暮らしの中にあるのはいいなあと強く思ったそうだ。
その国の歴史や文化によって、その音楽は様々だけど、それが暮らしに根付いていることはなんて豊かなことなんだろうと。
それが平和につながっていくと思うと。自分の暮らすこの十勝でも、ここならではの楽器や音楽があって、暮らしの中に音楽があるようなところになればいいなあと思うようになった。
そして自分が生きている間に、路地や色んな場所で楽器を持つ人がいたり、子供たちが音楽で遊んでいる風景が見られたらいいなあと、安田さんは言う。
そして安田さんは「ドグラマグラ」という女子だけのバンドを結成してコンガをたたいたり、ボーカルをやったり活動を始めた。ステージの度に衣装や歌う曲や演出など、新しいことにチャレンジするバンドだった。
空想の森映画祭でジンベタイコを教えている人と出会い、安田さんだけでなく、何人かで帯広で習うことになった。
私たちと同世代の山北紀彦さんも、「たいこたたき」としてやっていくようになり、年に一度くらいのペースでジンベライブを安田さんが中心になって企画開催し、私たちも前座でたたいたりするようになる。
そして今では、ジンベだけでなく、色んな楽器でいっしょに音楽を気軽に楽しむ仲間もできてきている。
振り返ると、今安田さんの暮らしの中に音楽が大きな存在としてある。しかも一人じゃない。
いっしょに分かち合う仲間がいる。
こんなふうになりたいと思っていたことに、ずいぶんと近づいている。
最近スチールドラムが好きになったと安田さん。
トリニダード・トバゴというカリブ海の小さな島が、その楽器の生まれたところだ。
ドラム缶からできた楽器だ。
ドラム缶の底の部分の表面にすりばち状の凹凸をつけ20くらいの音階をつくり、木琴の棒のようなものででたたいて音を出す楽器だ。
金属音なのにやさしい感じをうける音だ。
トリニダード・トバゴはもともとアラワク族、カリブ族の先住民が住んでいた。
15世紀、コロンブスがこの島に来て以来、1962年に国家として独立するまでにスペイン、イギリスの支配下に置かれ、その間にフランスからの移民、アフリカからの黒人奴隷、フランス系住民と黒人との混血(フレンチクレオール)、インドからの移民と様々な人種がこの島に混在するようになった。
そんな中で、カーニバルの風習をフランス系住民がもたらした。
黒人たちはカーニバルでサトウキビ畑に火を放ち、その炎を支配者に対する反抗の精神の象徴とし、批判、不満などを歌に託すようになった。そのため、白人の支配者はカーニバルを禁止し、それまで使っていた太鼓も取り上げられた。
すると、竹を色んな長さに切り、地面に打ちつけ、リズムをとるタンブーバンブーという楽器を発明した。
やがてこれも禁止されたために、発明されたのがスチールドラムだった。石油産出国なので、たくさんドラム缶があるのだ。
この小さな島で毎年2月、大きなカーニバルがある。このカーニバルで演奏できるのは1チームだけ。
地区予選を勝ち抜いたチームが、カーニバルの晴れ舞台で演奏できるのだ。
地域で地域でチームがあり、カーニバルでの演奏をかけて、老若男女が一丸となって12月頃からみんなで一生懸命練習を始めるのだそうだ。
現在、スチールドラムはこのトリニダード・トバゴの人々の生活に深く浸透している。総勢100人にもなるチームもあるそうだ。
様々な歴史を越えてきて、今人々がスチールドラムをたたく姿はどんなものか、安田さんはそれを見に行きたいと言う。
私もぜひいっしょに見てみたいと思う。
ということで、今年の12月はトリニダード・トバゴロケへ行きたいと考えている。
2003年2月25日(火)晴
8時起床。10時から新得町公民館で、今回の前半に撮影したラッシュを全員そろって見る。
見ながら、色々と話す。帰り道、フクハラで残り3日分の食料を買う。
お昼は宮下さんのソバをゆでる。
午後は、森の映画社で2月27日の為のラッシュ編集。全員参加。
晩はマサ子さんが、私の大好物のまぜご飯、サラダなど大量に差し入れてくれる。
そして藤本さんも来て、みんなで晩ご飯。西村さんは焼酎を持って来た。
上士幌の有ちゃんからもらった小豆島の国産レモンでお湯割りにして飲む。
美味しくて幸せな気持ちになる。
西村さんも絶好調で、北朝鮮やイラク問題の話など、大いに語る。
23時頃西村夫婦を見送りに外へ出る。
ふわふわしたいい雪が降っていた。
明日、新内の風景を撮影することにした。
2月26日(水)晴
6時半起床。新内ホールの横を流れるサホロ川で撮影。
晩に降った雪が、木々の枝にふんわりとつもっている。
今日は少し風がふいている。
空を見上げると、その雪が朝日を浴びながらハラハラと降って来る。
なんか心に残る。
新内ホール、宮下さんの家の近辺で風景撮影。
それから、私と岸本君は、昼ご飯抜きで森の映画社で編集作業。
明日までに仕上げなくてはいけない。
小寺君と大塚君はじいちゃんの家の掃除やゴミ出しなどをする。
夜、安田有里さんがエビスを持ってじいちゃんちに遊びに来る。
撮影中に友だちが宿舎に来てくれるのは、本当に嬉しいことなのだ。
いっしょに晩ご飯を食べる。
2003年2月27日(木)晴
午前中から森の映画社にてずっと編集。
タイムリミットの16時に終わる。
ラッシュフィルムは30分ちょっとにまとまった。
なかなかいいのではないか。今回はこれでいく。
18時に帯広のとかちプラザへ到着。
50人ほどが入れる会議室を借りた。
スタッフで映写、受付の準備。
十勝毎日新聞社の人、北海道新聞の人、朝日新聞の木村さん、安田さんのお母さん、平野さんご夫妻(私たちの友だちの両親)、じゃんけんしんしんのマスターなどなど、ぞくぞくと集まってくる。
肝心の出演者たちが来ない。
19時を少しまわってから映画「空想の森」十勝応援団の結成の集いを始める。
40人くらいの人が集まってくれた。
ようやく、安田、定岡もやって来た。
プロデューサーの藤本さんの挨拶につづき、監督の私の挨拶。
そしてラッシュ上映をはじめる。
音がついていないので、私が話しながら見てもらう。
みんな結構おもしろそうに見ていたような感じを受ける。
感触はいい。終わってから、主な出演者の安田さん、定岡さんに前に来てもらい、一言挨拶をしてもらう。
安田さんがこの時、心のこもったいい話をしてくれた。
今回の撮影で感じたこと、私たちの映画づくりに共感したこと、そしてこの映画をみる全ての人に、出会えてよかったと思えるような映画にして欲しいなど。定岡さんもいいこと言ってくれた。
ここ何年か私たちがいっしょに映画祭や色々なことをいっしょにやってきた蓄積があるから、この映画づくりができるのではないかと。
二人の言うことは本当にその通り。
そしてこの映画づくりを認めてくれて、そして本当にいい話をしてくれて、私は嬉しくて泣きそうになった。
ラッシュ上映が終わる頃、山形から帰って来たばかりの聡美さんも憲一さんといっしょに遅れてやってきた。
彼女にも最後に一言しゃべってもらった。
これまた聡美さんらしい言葉私は嬉しかった。
今までやってきてよかったなあと。
みんなの前にすくっと立っている出演者の一人ひとりを、私は誇らしく思った。
そして撮影スタッフを紹介。
ようやくスタッフが固まり、自分たちの見たい映画をつくるために、それぞれの仕事をし、たくさんの課題はあるけれど、一人でなくチームで映画をつくることをやりはじめたスタッフたちだ。
呼びかけ人の方々の挨拶、藤本さんの映画「空想の森」十勝応援団の結成の話を終え、閉会。
つくっていくエネルギーがちゃんとした方向へ転がり始めたような、そんな感じがした。
私はきっといいものが生まれてくるはずだと思った。
田代陽子、やってやろうじゃないの!
8時半過ぎ、居酒屋元にて打ち上げ。
ママがたくさんおいしい料理を用意してくれた。
木村さんが前にした約束通り、「十四代」といううまい日本酒を持って来てくれた。
みんなお腹一杯食べて飲んだ。
私は撮影も終わり、応援団の結成式もいい会になって嬉しくてしょうがなかった。
撮影が終わった安田さんは明日から2週間ほど旅に出発だ。
最後までしこたま飲んでいた聡美さんと憲一さんと定岡さんは私のアパートに泊まる。
私もようやく春らしい気分になってきた。
次回は4月中旬から2週間撮影をする予定です。
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