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空想の森便り 第1号 2002年9月

2002年9月
映画『空想の森』便り 第1号
監督:田代陽子

2002年冬から、ドキュメンタリー映画『空想の森』の撮影を本格的に始めました。

これから私たちスタッフは、この映画をみなさんの応援、ご協力をいただきながらつくっていきたいと思っています。

そこで、折々にどんな撮影をしているのか、どういうふうに映画をつくっているのかなどを、

みなさんにお知らせしていきたいと思います。よろしくお願いいたします。

■どんな人がつくっているのか■
スタッフを紹介します。まずは核になる3人を紹介したいと思います。

製作:藤本幸久

ドキュメンタリー映画監督。今まで3本の映画を製作した。

7年前に、東京から北海道の新得町新内の離農農家の家に移り住み、そこを映画づくりの拠点とした。

映画に、特にドキュメンタリー映画に馴染みのないところなので、地元新内の廃校になった新内小学校で1996年から映画祭をはじめた。

新得に住んでから2本のドキュメンタリー映画を16ミリフィルムでつくった。

『森と水のゆめ』は、新得町の山や森を舞台に地元のスタッフといっしょにつくった。

山のリーダーとして郵便局員だった西村堅一さん、音楽は農業を営む宇井宏さん、

ナレーションは同じく農業を営む能登真由美さん。

主人公は西村さんの妻、マサ子さんの父で、開拓農家だった小川豊之進さん。

『闇を掘る』は北海道の炭鉱に生きた人々の今を描いた。

キネマ旬報のその年の文化映画ベスト6位に選ばれ、

また2002年8月ハンガリーのレティーナ映画祭では準グランプリを受賞するなど高い評価を受けた。

映画『空想の森』のプロデューサー。

1996年にSHINTOKU空想の森映画祭を立ちあげ、実行委員長をしている。

映画祭は毎年6月に開催。今年で7回目となった。

 

撮影:小寺卓矢

写真家。

阿寒の森がフィールド。

森の中の木々や生き物たちを見つめ続け、そこから自分たちが生きている今の世界を考えている。

繊細な写真を撮る。

藤本監督作品『森と水のゆめ』の2年目の撮影の時、スチール写真の撮影など、現場スタッフとなった。

SHINTOKU空想の森映画祭のスタッフでもあり、映画祭がきっかけで今の奥さんと知り合い結婚。

『空想の森』で初めて映画のカメラをまわすことに挑戦している。

 

監督:田代陽子

1回目のSHINTOKU空想の森映画祭に参加したことがきっかけで『森と水のゆめ』のスタッフとなる。

スケジュールづくり、食料計画、など撮影を進めていけるよう準備する助監督として映画づくりに携わる。

その後、3回目の映画祭から事務局長として映画祭をつくっていくことに力を注ぐ。

『闇を掘る』では1年間、編集作業から仕上げまで携わる。

2本の作品を通して、映画の撮影現場から最後に作品が完成するまでの一連の過程を経験した。

そして自分たちの映画をつくりたいと思い、初めて自分の映画づくりに挑戦している。

■どんな映画をつくろうとしているのか■

〜主役は4人の女性たち〜

舞台は日本の北海道は十勝、新得辺り。

主な登場人物は、新得共働学舎農場で野菜をつくっている山田聡美、会計の仕事をしている定岡美和。

共働学舎は、牛乳山とよばれる山のふもとで牛を飼い、乳をしぼり、その乳でチーズをつくったり、

野菜をつくったりして50人程の人たちが共に暮らしている農場です。

体に障がいがある人や心に病をもつ人たちといっしょに暮らしています。

現在、帯広で現代アート展デメーテルのスタッフとして働いている安田有里。

そしてこの映画をつくっている私、田代陽子の4人です。

私と聡美さんは本州から、北海道に移り住んできました。

安田さんと定岡さんは大学時代や、初めに就職した時に地元を離れ、そして戻ってきました。

それぞれ新得で毎年開催されている「SHINTOKU空想の森映画祭」のスタッフで、今はみんな30代になりました。

この映画祭をいっしょにやってきた中で、お互い親しくなった友人で、アフリカの太鼓ジンベをたたく仲間でもあります。

映画祭を通して、新得の人々や風土と親しくなっていきました。

 

〜そして新得の人々〜

一回目の映画祭の時、主力スタッフだった新内で農業を営む宮下喜夫さん、文代さん夫妻。

関西から25年程前に移り住んできて新内に入植しました。そばや野菜をつくっています。

宮下さんのつくる白菜は、私には特においしく感じます。

トムラウシ山など、この辺りの山に精通している生まれも育ちも新得の西村堅一さん、マサ子さん夫妻。

一回目から映画祭を支える縁の下の力持ちです。

宮下さんのすぐ隣の家に住み、三年前に養鶏をやめコンピューターのサポート業を営んでいるインデアンこと芳賀耕一さん。

やはり25年程前に東京からここに移り住んできました。

町の問題解決にも取り組むリーダー的存在でもあります。色々なことを知っていて、たいがいのことはできる人なので、

私たちは「困った時にはインデアン」と言って助けてもらっています。

〜ゆっくりとつきあい、ゆっくり映画をつくりたい〜

私たちはこの地域の人たちと出会い、いっしょに映画祭をやってきました。

私は宮下さんや聡美さんを通して、畑の作物がどのようにつくられているのか、

どんな人がつくっているのかを初めて身近に見たり、体験したりしました。

どれほどの手間、暇、愛情がこめられていることか。

そして収穫の時、畑でもいで食べるトマトが抜群においしいことを初めて知りました。

故小川豊之進さんと西村さんには、冬に鹿撃ちに連れていってもらったこともありました。

仕留めた鹿を小屋で酒を飲みながら、斧とナイフの使い方を教えてもらいながら解体しました。

背肉、ももなどの肉の固まりに分けました。

私はなぜか、鹿を撃って倒れた瞬間から、「あのおいしい鹿の肉」として見ることができました。

もちろん、刺身でおいしくいただきました。

しょうゆに黒コショウを入れて、刺身で食べる鹿の肉のおいしさは西村さんに教わりました。

鹿撃ちに連れていってもらって以来、生きているものを殺生してありがたくおいしく食べて私たちは生きているということを実感します。

まだまだ試行錯誤の私たち4人が、それぞれに21世紀になった今を生きている中に、

ここで暮らしていくおもしろさや楽しさがあります。

映画祭はこの映画の中ではみんなの結び目となる空間です。

私たちの暮らすこの辺りの自然や風土、人間たちとゆっくりつき合っていきたいと思います。

■今までどんな撮影をしてきたか■

〜アニメーションをつくってみた〜

2月、新内ホールで、京都造形芸術大学教授でアニメーション作家の相原信洋さんを講師に、

アニメーションワークショップをしました。

映画祭の時は、スタッフはなかなかワークショップを受けられないので、

登場人物の面々に集まってもらって粘土を使ったクレイアニメーションをやってみました。

宮下さん、聡美さん。定岡さん、マサ子さん、藤本さん、私。

雪深い新内ホールの校庭をみんなで除雪して道をつくりながら校舎に入っていくところから撮影しました。

とても天気のいい日で、たくさん汗をかきました。

冬の柔らかい日ざしが入ってくる新内ホールで粘土をこね、色をつけ、ほんの少し動かして16ミリのボレックスというカメラのシャッターを3回押す、コマ撮り撮影しました。

これはずいぶん気長な作業で、聡美さんは居眠りしながらやっていました。

それぞれ思い思いに色をつけ、形をつくって粘土のアニメーションを楽しみました。

この時つくったアニメーションは、なかなかおもしろい作品になりました。

 

〜サホロ岳北斜面の森〜

3月、サホロ岳北斜面の森での撮影。

サホロスキー場の北斜面に、スキーのコースをつくる拡張計画がもちあがっています。

その辺りの森は、様々な生き物が住んでいるところで、天然記念物のクマゲラも住んでいると言われています。

一体どんな森なのか。

西村さんに案内してもらい、地元に住む芳賀さん、宮下さん、藤本さんたちといっしょに、まだ雪深い春の山をスノーシューをはいて登りました。

スキー場を左手に見て、大きなお椀型になった谷の斜面を登っていきました。

途中、エゾマツなどの太い立派な木がたくさんありました。

この辺りは一度伐採されているところで、その時にまだ小さくて残された木がこんなに大きくなったのだろうと、案内役の西村さんは言っていました。

大きく太い親木の周りに、細い子供の木がびっしりとはえているところもありました。

新しいものではなかったけれどクマゲラが餌をとったために開けた大きな穴も見つけました。

また、何かの実を食べるためにクマが木に登ったであろう爪痕が、くっきりと木の幹にしるされていました。

カバの木には黒々としたキノコもくっついていました。

稜線に近いところまで登ったところで、樹齢500年はたっているだろう大きな大きなミズナラの木に出会いました。

大人5人ほどが手をつないでようやく抱えることができるくらいの大きな木です。

よくぞこの厳しい地で生きてきた!という感じです。

歩いているだけで気持ちが良く、色んな発見のある美しい場所でした。

また歩いてみたいです。拡張計画の問題はどうなるのか見守っていきたいと思います。

 

〜聡美さんの結婚式〜

3月末、聡美さんの結婚式の撮影。

聡美さんが共働学舎の食堂で結婚式をしました。

夫になる人は、以前共働学舎で働いていて、今は新得町の牧場で働いている山田憲一さんです。

学舎のみんなでやったお祝の紙芝居、共働学舎のみんなの手作りの料理、新郎新婦みずからの音楽の演奏など、賑やかであったかくて楽しい聡美さんらしい結婚式でした。

 

〜チェコアニメーション〜

4月、チェコのプラハでの撮影。

2002年の映画祭はチェコアニメーションを特集しました。

藤本さん、定岡さん、西村夫妻そして相原信洋さんらといっしょにチェコのプラハを訪れました。

プラハは400年前の建物がゴロゴロと現役で存在する美しい町でした。

ビールが非常においしく、また安いのが嬉しかったです。

空想の森映画祭で上映するアニメーションの作品の選定と、お招きするアニメーション作家の人を選ぶために行きました。

国立映画大学では校長先生のコビチェックさんが、ドットカ先生を紹介してくれました。

国立映画大学とトルンカアニメーションスタジオで、それぞれ作品をみせていただきました。

チェコの歴史が反映された内容も多く、私には難解なものもありましたが、とても面白く見させていただきました。

 

〜共働学舎の聡美さんと定岡さん〜

6月、共働学舎にて、聡美さんの仕事と定岡さんの仕事の撮影。

聡美さんは野菜部の責任者です。

他の人たちといっしょに、春に種をまいて育ててきたナスを畑に植えかえる作業や、カボチャの苗と羊のたい肥でつくった土をポットにいれる作業などをしていました。

一つの仕事にとりかかる前、聡美さんはやって見せながら、みんなに丁寧にわかりやすくやり方を説明します。

ナスの苗は畑へ運ぶ前、水をたっぷりと根に吸わせます。

畑に移すと、水まきができないからです。

畑に張られたビニールのマルチに、苗を植えるために、まず穴を一定間隔で印しとしてつけていきます。

細い棒の長さが苗の間隔になるので、その棒の幅で穴を開けます。

その印しのところにストーブの排気管でつくった道具で苗の入る大きさの穴を開けていきます。

この道具を使うと立ったままでスピーディーに作業ができます。

そして穴の前に持ってきた苗を置いていき、適度な深さと大きさの穴を掘って、ナスの苗を植えていきます。みんなを見守りながら、時に教えたり、人によって仕事をふり分けたりすることも聡美さんの大事な仕事の一つです。

定岡さんは3月から共働学舎で働き始めました。

会計の仕事をしています。

パソコンでの会計作業、電話受けが主な仕事のようです。

チーズ工房の2階で働いているので、お客さんが来たらチーズを売ったり、接客も定岡さんの仕事です。

なんだかとても楽しそうに働いています。

 

〜宮下さんの畑〜

人間がかかとをくっつけたまま、膝をがに股に開いたようなものを肩にしょって、宮下さんが畑を歩く姿をしばしば見かけていたのですが、この日、ようやく何をしているのかがわかりました。肥料まきでした。

その変わった道具(ラッパ)に肥料を入れ、二股に肥料が落ちてくるのに手を添えて、量を調節しながら畑を一畝一畝歩いてまくのです。そこに植える作物によって肥料の量が違うので、歩くスピードや添えた手で調節するのだそうです。

「ラッパ」と呼ばれるその肥料まきの道具は、今もこうして使っている人はあまりいないそうです。

宮下さんの全ての動きには無駄がなく、一つ一つに理由があります。

その姿、動きを美しいと私は思います。奥さんの文代さんもいっしょに働いています。

二人での息の合った作業も今度ぜひ撮影したいものです。

 

〜SHINTOKU空想の森映画祭〜

6月中旬、映画祭準備と映画祭本番。

この映画祭も、一からつくりあげていく、手づくりのものです。

定岡さん、安田さん、聡美さんもそれぞれこの映画祭を支えています。

スタッフみんなでつくる映画祭の空間が、この映画の登場人物たちの結び目になっています。

会場は小学校だった新内ホールと農家のD型倉庫をスタッフで改造して劇場にした豊之進劇場。

チェコからお招きしたドットカさん、ヤンさんを講師に迎えてのアニメーションワークショップ。

アフリカンドラムのライブ、あがた森魚さんのライブ。

カルメンマキさんがスペシャルゲストでした。

今年もにぎやかに映画祭が開催されました。

 

*田代陽子の共働学舎体験記*

8月、私は共働学舎農場で牛、チーズ、野菜の仕事をやってみようと通いました。

主な登場人物の2人がここで働いているので、もっと知りたいと思ったからです。

野菜はこれまでも何回か聡美さんの手伝いをしたことはあるのですが、牛やチーズの仕事はやったことがありませんでした。

 

<牛>

〜乳しぼりをやってみた〜

学舎に家族で暮らしている加藤敬さんという人が牛の責任者です。

牧草、デントコーンなど、自給飼料でなるべくまかなえるようにしたいというのが学舎の考え方だそうです。

そして加藤さんは、この新得に合ったやり方で牛を飼っていきたいと考えています。

学舎には34ヘクタールの牧草畑があって牧草をつくっています。

牧草にもイネ科とマメ科があって、イネ科は繊維、マメ科はタンパク質を含んでいるのだそうです。

牛はホルスタインとチーズをつくるには良いと言われているブラウンスイスなど全部で50頭程います。

牛という動物は視力がほとんどないのだそうです。

そのかわり、聴覚と嗅覚はとても発達しています。

搾乳中に大きな音をたてたり、牛の前に立っりするとアドレナリンが出てお乳が出にくくなってしまうので、気をつけなければいけません。

一般の牛飼いは、一頭から一年で1万リットルの乳をしぼるそうです。

学舎では、それを7千リットル以下に抑えているそうです。

牛の負担を減らし、なるべく長くミルクをしぼれるようにしたいからです。

それでも6、7年で乳量は減ってくるそうです。

乳の出が悪くなると、最後は肉牛として出荷するのだそうです。

牛の妊娠期間は人間とほぼ同じ10ヶ月間。

子牛を産んで4日間は濃い乳を出すので出荷用にはならないので、別にしぼって子牛に飲ませるそうです。

子牛を産む2ヶ月前からは乳をしぼらないので、牛は10ヶ月しぼられ、2ヶ月休むというサイクルで搾乳されています。

子牛を産んでから2ヶ月後にまた人口受精をし、10ヶ月後にまた産むというサイクルにしているそうです。

牛は人間の為に改良されてきた動物なのです。

 

〜搾乳〜

朝5時半、牛舎から搾乳の小屋に牛たちが集まってきます。

8頭づつ、ゲージに入ります。牛のお乳は4つなんです。

たまに6つある牛もいたりします。乳房は4つに中で分かれているんです。

まず細かい網がかかったカップに、4つそれぞれ乳をしぼります。

もし豆腐のようなものが網にかかったら、それは乳房炎にかかっているということなので、その乳房のお乳は売り物にできません。

それは別にしぼって廃棄します。

体の病気からくる乳房炎の場合は、全ての乳房の乳を廃棄しなくてはいけません。何頭か、乳房炎の牛がいました。

その牛には後ろ足に赤いスプレーをかけて印をつけていました。

割とゆったり飼われている学舎に、どうして乳房炎の牛がいるのか加藤さんに尋ねてみました。

昔はそんなに乳房炎にかかる牛はいなかったそうです。

しかし、今の牛は乳が沢山出るように改良されています。

それは自然に反することで、その分、牛にかかるストレスがとても大きいことが原因だそうです。

いわば牛の現代病のようなものとのことでした。

先しぼりが終わると、スプレーの入れ物に入った赤い消毒液を乳頭めがけてシュッシュッとかけます。

それを端から5頭目までくらいやります。

続けて、紙のふきんでしっかり拭き取ります。

それから搾乳機を取り付けます。

自動的に搾乳され、ホースを通ってタンクへとしぼられた乳が送られます。

しぼり終わると自動的に搾乳機がはずれますが、念のためもうミルクがでないかチェックします。

先の牛を搾乳している間に、残りの3頭の先しぼりから始まる手順で仕事をすすめます。

なぜ時間差でやるのか。

これには訳があります。

先しぼりで乳頭をキュッとさわり、消毒液をかけて拭いたりすることで、牛はこれからミルクをしぼるんだと脳に伝えます。

触ってから1分後から10分間、オキシトシンというお乳をたくさん出そうとするホルモンが血液中を駆け巡ります。

その10分間で乳をしぼることが、一番乳量が多く効率がいい為、時間差で作業をするのです。

しぼった後はまた、消毒液を乳頭にスプレーします。

今度は拭き取らずそのままにします。

乳頭から雑菌がはいるのを防ぐためです。

8頭全てしぼり終わったらゲートを開き、牛舎の方へ牛を追います。

この繰り返しなのですが、牛にも個性があって、拭かれたり搾乳機をつけるときに足をばたばたさせ、暴れる牛もいます。

蹴られたりすることもあるそうですが、加藤さんはさすがに暴れ牛でも動じることなく、手際良く作業をすすめていきます。

私はなんせ、こんなに牛に近付いたり触ったりすることは初めてのことでしたが、やっているうちに少し慣れてきました。

 

〜掃除〜

搾乳が終わると、掃除を始めます。

天井から3箇所、管がぶら下がっていて、手元で湯と水を出したり止めたりすることができます。

それで搾乳機やミルクの管をきれいに洗います。

それから、搾乳する時に牛がいる場所です。牛のお尻の高さの少し下のところに、糞を受けるものが横にはしっています。

搾乳中の糞をこれで受けているのです。

けっこう溜まっています。

ブラシでまずそこをきれいにしてからコンクリートの床の糞や尿をホースの水で端にふき飛ばします。

 

〜ミルクはチーズになる〜

今しぼった乳は、四角い大きなタンクに溜められ冷やされます。

一日800〜900リットルの乳が溜まります。

搾乳小屋より低いところにあるすぐ隣のチーズ工房へ、しぼりたての冷やしていない乳を管で直接流しています。

学舎では、毎日冷やした牛乳を大きなコーヒー瓶に入れて朝食に出し、みんなで飲みます。

私も飲みました。

労働の後の朝のしぼりたて牛乳は本当においしい。

 

〜牛の糞を出す〜

牛は木造の牛舎にいます。

屋根は半透明なので日の光が入って来て明るい牛舎です。

敷きわらの上で牛は寝そべったり、歩いたりしています。

牛舎の下には沢山の炭が埋められているそうです。

この日は、若い金くんが私に張り切ってやり方を教えてくれました。

牛が搾乳から戻って来る前に、牛舎の敷きわらの上に落ちている糞をスコップで通り道に出します。

糞はたくさんあり、けっこう重たいのです。

その出された糞を、なぎちゃんが大きなシャベルカーで集めて、そのまま山の上の方にあるたい肥場へ運んでいきます。

このたい肥は畑の肥やしになるのです。

普段は穏やかで優し気ななぎちゃんが、男らしくきびきびと仕事をしているのでした。

 

〜牛にえさをやった〜

牛舎の餌食べ場では、一頭づつ頭を突っ込むゲージをロックし抜けないようにして、牛の鼻先に餌を置くようにします。

なぜ好きに食べさせないのか金くんに尋ねると、牛にも強い牛と弱い牛がいて、好きに食べさせると強い牛ばっかり餌を食べることになってしまうし、その牛の乳量によって餌の量や与える餌を変えているそうだからです。

よく見ると牛の首にひもが通っていて、それに緑、黄色、白、赤のビニールテープが付いています。

緑は配合飼料3杯、黄色は2杯、白は1、赤はあげないというふうに、餌の量の目印なのです。

それを一頭一頭チェックしながら餌をあげるのです。

なるほど、私が端から順番に餌をあげていると、時々次に餌の順番が回ってくる牛が待切れないのか、横の牛に与えた餌を舌をのばして横取りして食べる牛がいるのです。

金くんはすかさず私にアドバイスします。

まず1杯その牛に餌をやった後、次の牛にも1杯やる。

そして初めの牛の足りない分をつづけてやる。

それを素早くやらなければなりません。

金くんはビニールテープの色を瞬時に確認し、素早い手付きでどんどん餌をあげていきます。

もちろん、次の牛が横の牛の餌をとる隙を与えません。

加藤さんの飼っている犬が元気よく走ってきて金くんを遊びに誘います。

牛の餌のコーンをつまみ食いしたりします。

実に色んな種類の餌をあげていました。

炭、これは臭いを抑えるために与えるのだそうです。

牛用ジェネターは発酵菌で胃腸の働きをよくして糞の臭いを抑えたり、たい肥になった時の分解を早めるのだそうです。

綿実は油分が多くミルクの脂肪分が上がるそうです。

醤油かすはタンパク質。ルーサンキューブは豆科の牧草。

ミルクを沢山しぼられる牛は、それと同時にたくさんのカルシウムもいっしょに出しているわけです。

金くんがプレミックスという名前の入った袋を私に見せてくれました。

これは特に乳量の多い牛に与えるもので、「大変高価なものなので、さじ一杯分しかあげられないんだ。」と重々しく言います。

ミネラルがたくさん含まれたな白い粉末です。

そしてコーン、配合資料など。最後に牧草ロールをフォークで突き、牧草をたっぷり牛に与えます。

餌場に黄色い四角いものが3つほどごろんところがっていました。

これは岩塩だそうで、牛がなめたい時いつでもなめられるようにしているそうです。

これもミネラルの補給です。

大雪や日高の山々をバックに牧草ロールが畑に置かれたりしている風景は、私が十勝に来て最も好きな風景の一つでした。

それがどう使われているのかは見たこともなく、3本爪のフォークなんかもあこがれの道具であったのです。

 

<チーズをつくった>

チーズ工房の若き工場長、山田圭介さん。

圭介さんはここ数年の映画祭では新内ホールの廊下で焼きおにぎりやをやっています。

七厘で焼くおにぎりはとってもおいしく、なかなかいい風情をかもしだしているのです。

工房は若い活気にあふれています。

大阪から来た美紗子ちゃん、飯田さん、今さんの3人の女性と、男性陣は、実家が喜茂別の酪農家で酪農大学を休学して学舎に研修にきている斉藤愛三くん。

いづれは実家でチーズをつくりたいと考えています。

松島君は12月に結婚したばかりで、奥さんの実家が群馬県の赤城山の麓で養豚と野菜をつくっているのですが、

そこで酪農とチーズづくりをやりたくて研修に来ているのだそうです。

風力発電で電力を自給することも夢なんだそうです。

このチーズ工房では、モッツァレラ、水入りモッツァレラ、カチョカバロ、クリームチーズ、バター、カマンベール、ラクレット、シントコと色んな種類のチーズをつくています。

それぞれのチーズに担当者を決めています。

 

〜とにかくきれいに清潔に〜

チーズは目には見えない菌を扱う仕事です。

工房に入る時は汚れが目立つように白いTシャツを着用し、暑いので短パンをはきます。

そして白い防水性のエプロンをつけ、頭には白い網目のキャップをかぶり、工房の外に出る時は着替えます。

工房内は人も道具も建物も常に衛生的であることが大事なことです。

手洗いは肘まで洗います。

洗い場は二層に分かれていて、まず洗浄効果の高いアルカリの水で汚れを落とし、殺菌効果の高い酸性の水をかけます。

シンクの横には蒸気と水が調節してホースから出せるように胸の高さくらいにコックが付いています。

最後にホースの水で洗い流して洗い物終了。

この蒸気は道具の熱湯消毒にも使います。

チーズづくりは時間でやることが決まっていることも多く、その合間にも次の段階の仕込みや熟成庫のチーズの世話が組み込まれていて、大変忙しい職場なのでした。

 

〜人間は手助け〜

ラクレットを担当するようになってまだ日が浅い愛三くんは、最近ようやく安定した製品をつくれるようになったと言います。

自分の思い通りに菌をコントロールしてやろうという気持ちでつくっているといいチーズができない、菌がその能力を活かしてよく働くように、人間が手助けしているだけなんだと思うようになってから、少しづついいチーズができるようになってきたそうです。

 

〜カマンベール〜

隣の搾乳小屋から高低差を利用して、そのまま新鮮な牛乳がチーズ工房に流れてきます。

この日は圭介さんがカマンベールをつくる日だったので、いっしょに手伝わせてもらいました。

ステンレス製で長方形の大きなチーズバットの中に、45〜50キロ入る大きさの円筒形のステンレスの入れ物に牛乳がはいったのもが、おいてありました。

それを適温まで温度を上げ、試験管に入ったレンネットというスターターの乳酸菌を少量づつ入れて、決まった秒数で攪拌します。

しばらく寝かせておくと、酵素の働きでだんだん固まってきます。

それを少しすくって食べると、まだ牛乳の匂いがして柔らかいのでした。

次はカッティングです。この円筒形の缶に合うようなつくりで、細い針金が縦横斜にはしっています。

それを静かに固まってきた乳にいれ、底までしずめたら90度右にまわし、さっとまた逆に180度まわし引き上げます。そうすると少し固まったものが細かい固まりになります。

これは乳の水分、乳せい(ホエー)を抜くのにかかせない作業で、チーズづくりの行程の中でも大事な作業だそうです。

ちなみに、この大量に出るホエーはポンプで汲み上げられ、牛舎の牛たちの飲みものとして大きなタンクに入れられます。

ホエ−の大好きな牛もいるそうです。圭介さんはリズミカルに、そして慎重に作業します。

そしてまたしばらく寝かすとホエーが上にあがってきます。

次はその水分をバケツであらかた出し、まだ柔らかい固まりを20個一組みになったフランス製のカマンベールの型に流し込んでいきます。

またしばらく寝かせると水分が抜けて固くなりチーズらしくなってきます。

この過程で何度も味をみたり触ったり、何度もホエーをすくってペーハ−の値を調べます。

その段階段階で基準となるペーハー値があるそうなのです。

これはあくまで基準で、ここでこの環境でつくっている中でのおいしい値は違うかもしれないので、試行錯誤しているのだそうです。

チーズも生き物、決められたことだけではなく、自分の感覚でよしあしが判断できるようになることも、美味しいチーズをつくる大事な要素なんだなあと感じました。

そして型からとって塩づけをしてから、網棚の上にのせてしばらく置きます。その後、熟成庫に運び、白かび菌をふきつけます。

この後1週間〜10日間、白かびを育て、全体に白かびがはえたところで包装をし、その後1ヶ月〜1ヶ月半程熟成させます。

途中、ひっくり返したり世話をしながら熟成させていきます。

一つの作業が終わると、道具の洗い物がたくさん出ます。終わったらすぐ運んでアルカリ性水、酸性水で洗い、最後に大きなカートに洗ったものを置きホースの水をかけます。

そして所定の場所へ道具を置きます。

他の種類のチーズをつくっている人もいるのですぐやらないと、あっという間に洗い物が入りきれない程たまってしまうのです。

大きなもの、細かいもの木製の道具などがあり、洗い物も大変な仕事です。

とにかくきれいに洗う、自分もきれいにということで、共働学舎の新たな一面を体感しました。

 

〜カチョカヴァロ〜

カチョカヴァロの仕上げの作業があり、私も手伝いました。

熱湯につけたよくのびるモッツァレラの固まりを、圭介さんが上手に適度な大きさのまるい形にしていきます。

それを私とルイーザがアチチと言いながらまん中にくびれをつくり、ひょうたん型に形作っていきます。

その後、塩水に1時間程つけ込んでから、ヒモにひょうたんの形のチーズをくくりつけていきます。熟成庫へ運び、3週間ほど熟成させます。

 

〜美しい道具〜

ラクレットの撹拌をしていました。

木製のスコップを使っています。

その柄とシャベル部分のカーブがなんとも美しく、味のある道具です。

ラクレットの型も木製で、丸くなるように彎曲した板の外側に、締めるためのヒモと木製のストッパーが付いています。

水分を出すために、締める時には木のとんかちでストッパーをたたくのです。

代表の宮嶋望さんがフランスから持ってきたこの型は、いかにも固くて丈夫そうな木でした。

日本製のものはそれよりも繊細そうな杉でした。

木を彎曲させる技術が難しく、日本製のものは柔らかい木を使っているのではとのことでした。

商品として発送するカマンベールの包装も手伝いました。

四角い白い包み紙に笹の葉を敷きます。これは金くんが裏山から採ってきて消毒したものです。

その上に出来上がったカマンベールを置き、きれいにしわをつけながら見栄え良く包んでいきます。

それを木製の丸いケースに入れていきます。

見ていると簡単そうですが、なかなかきれいに包むのは難しいのです。

圭介さんはいとも簡単に素早くこなしていきます。

 

〜全てつながっている〜

それにしても機械も少し使うけど、本当にたくさんの行程を人間がやる手作りのチーズなんだなあと感じました。

洗い物をしながら愛三くんか松島君とこんな話をしました。

「美味しいチーズをつくるということは、牛も健康で質のいいミルクを出してもらわないとできないこと。

牛が健康であるためには、いい餌を食べさせたり、牛の住む環境を整えることが大事で、全てがつながっているんだということを学舎にいると、その事を嫌でも考えさせられるんですよ。」と。

毎日ここでチーズをつくりながら、みんなひしひしと感じているんだろうなあ。

全て自分たちにはね返ってくることがよくわかるだろうなあ。

今の世の中そんなことを実感として感じられるところってあんまりないと思うのですが、ここは牛を飼い、牧草を食べてミルクをしぼり、チーズをつくり、野菜をつくり、ブタを飼い、鶏を飼い、それらを自分たちで食べている。

何かがおかしくなると、直接自分たちに返ってくるのです。

 

<野菜>

今年の天候はいつもの年にもまして変でした。

5、6月はまあまあだったそうですが、7、8月は天気が悪く、太陽が顔を出す日がとても少なかったのです。

トマトは実がなっているのですが、赤くなりません。

いっしょに畑を見に行ったのですが、カボチャはなかなか大きくならす実も少ないと聡美さんはなげいています。

毎年お盆の頃、とうきびと枝豆ができてくるのですが、今年はまだ実が充分大きくなっておらず、とうきびの実はまだ白いのでした。

そんな大変な気候の中でも野菜はけなげに育っています。

学舎の畑は学舎内の敷地にもありますが、近隣の畑を数箇所借りていて、色んな場所にあります。広さで言うと2ヘクタールほどあります。

普段の日は、聡美さんは早朝からその日の仕事の段取りをして、朝食後、野菜部の人たちをワゴン車に乗せて、畑へ向かいます。

その日は、午前中は外の畑で白菜の間引きをしました。

まだ小さくて葉が3重くらいしか生えていない大きさでした。

くっついているものは、これから大きくなったらぶつかりあうので、見比べて弱そうな方を抜きます。

この時ついでに雑草も抜くと、後が楽になっていいのです。

牛の加藤さんの妻の佳子さんも手伝いにきました。

彼女は工芸の担当ですが、時間のあいた時に野菜を手伝っています。

一畝を一人が担当します。佳子さんと間引きしながら少し話をしました。

彼女も本州からここ新得にきて、牛の加藤さんと結婚し、家族といっしょに学舎で暮らしています。

新得のどこが好きなのかを尋ねると、少し考えてから、土の色と答えました。「黒々としていい色をしているのよね。」と。

 

〜人参の間引き〜

午後は人参の畑へ。

これも外の畑で山の近くにあります。

カボチャのうわっているところを越えると、人参の葉が見えてきます。

この畑は一畝がとても長く、中間あたりが少し高くなっているので向こうの端が見えません。

ここで人参の間引きと雑草取りをしました。

最初に聡美さんがやって見せながら、みんなにやり方を説明します。

間引きには少し遅くなってしまった人参なので、抜くのに少し力がいるかもしれないけど、と前置きがあり、びっしりとはえている人参を人さし指の間隔くらいになるように間を抜きます。

まず、小さくて弱そうなのは抜き、その時に残す人参の葉をなるべく傷つけないようにすることが大事なことです。

せっかく残しても、葉を傷つけたら、怪我をさせたのと同じことで、生育が悪くなってしまうからです。

そして少し大きくなってるので、葉っぱだけちぎれてしまないように注意しなくてはいけません。

その時は、実を掘り出さないと間引きの意味がなくなってしまいます。

そして間引いた時に残した人参が、しっかり土をかぶっているか確認もしなくてはいけません。

隣を抜いた時、土がいっしょに飛ばされて人参が見えてそのままにしておくと、その部分が青くなって商品価値が下がってしまうからです。

その作業は見た目ではわからないけど、とってもきつい作業なのです。

常にかがんでいて、そのまま少しずつ移動していくので、慣れない運動不足の私は、太ももが筋肉痛になるほどです。

長時間やっていると腰も痛くなってきます。

しかも終わりが見えない畑で、雑草がものすごくて人参が見えないほどのところもあり、いったいどのくらい時間かかるんだろうと思ってしまいます。

でも仕事に慣れてくると、手を動かしながら、脳の働きも活発になるのか、考え事にはもってこいです。

飽きてくると、いっしょにやっている人と話したりもできます。

時々立ち上がり、腰を伸します。周りの山々の美しさが目にしみます。

久しぶりに天気のいい一日で、首にまいたタオルで汗をぬぐいます。

手は土だらけで爪の間にもびっしりつまっています。

加藤さんのお父さんの修多さんも手伝いに来ています。

修多さんのやった後はとてもきれいなのです。

雑草とまびいた人参が後で集めやすいように、畝と畝の間にきれいにまとめられているのです。

人参も方向をそろえています。

なるほど、後でまびいた人参を集める時、修多さんの列はとても集めやすかったのです。

 

〜野菜の引き売り〜

火曜日と金曜日は、やさい屋の日です。

帯広方面に野菜を売りに行くのです。

私も初めから終わりまで聡美さんといっしょにやってみました。

いんげん以外は、行く日の早朝5時くらいから収穫し、選別し、きれいに切りそろえたり、重さを計ったりし、新聞紙に丁寧に包み、箱に詰めワゴン車に積みます。

収穫したものをただ運んで売っているわけではないのです。

野菜部の人はもちろん、手の開いている人、近所に住んでいる前に学舎にいた仁木千鶴さんも手伝いに来てくれます。

佳子さんが現場を指揮しながら、あわただしくもにぎやかにみんなで作業をします。

美味しく食べてもらおうと、作物が痛まないよう最細の注意を払って扱います。

その作業は早朝から11時くらいまでかかります。

そしてワゴンを運転できる人と、もう一人手伝いできる人の2人で帯広に引き売りに出発します。

学舎に帰ってくるのは夜の10時を過ぎます。

収穫時期の約3ヶ月間、聡美さんは1週間に1回かもしくは2週間に1回これをやっています。

あまりにしんどいので私が、その日の朝でなく前の日に収穫したらどうかと聡美さんに言うと、野菜は夜の間に養分をためて、昼間それを消費しているから、朝一番に収穫するのが一番おいしいので、やっぱり朝に収穫しないとだめだと答えました。

じゃがいも、長ねぎ、人参、トマト、ミニトマト、イボイボきゅーり、いんげん、ピーマン、ししとう、カボチャ、ズッキーニ、しその葉、パセリ、イタリアンパセリ、セロリ、枝豆、とうきびなど、ワゴン車の荷台は野菜で満載になります。

原地さんの焼くパン、京子さんの焼くクッキーやケーキ、ハーブの花束、そしてチーズ工房からチーズも受け取っていっしょに積み込みます。本当は10時半には出たいのですが、なかなか手間がかかる作業なのでいつも11時頃の出発になってしまします。

一時間ほどドライブして帯広の町に入ります。まず初めに、会社やお店を回ります。

ワゴン車に詰めてきたものを、駐車場や道ばたにあらかた出して、臨時のお店を開きます。

午後から夜は個人宅を一軒一軒まわります。

お客さんは学舎のやさいやをとても楽しみに待っているのです。

長い付き合いのお客さんも多く、もう子供が独立して夫婦二人になった人たち、逆に幼稚園児だった子が高校生になったなんてところもありました。

この前買ったカボチャでこんな料理をつくってとてもおいしかったとか、お天気どうしちゃったのかしらとか、うちで人参をつくっているのだけどもう収穫してもいいかしらとか、バジルの使い方を教えてなど、聡美さんと話すのを楽しみにしているお客さんがたくさんいました。

聡美さんも丁寧にそして楽しそうにそれに答えていました。

これがあるから聡美さんはやさい屋が好きなんだなあと私は思いました。

自分で丹精込めてつくった野菜が、お客さんに喜ばれるのは本当に嬉しいことだろうと少し手伝っただけの私も思います。

今年は聡美さん頑張っているなあと思うのは、「やさいや便り」を書いていることです。

眠たい眠たいといつも言っている聡美さんが、時間を見つけて通信を書いているのです。

印刷は定岡さんがやっています。

やさい屋でまわった時に、お客さんに手渡します。

便りを楽しみにしているお客さんもいます。

畑の作物の様子や野菜の料理法そして共働学舎のことも、どういうところか紹介していこうとしています。

夫の憲一さんにも毎回書いてもらっています。

 

〜在来種を大事に〜

聡美さんは10年前に学舎にやって来ました。

その時、野菜をやっていた関口光さんのもとで、一昨年までいっしょに野菜づくりをしてきました。

光さんのやり方はいわゆる無農薬、有機農業で、色々な品種を試してみることが好きだっだそうです。

聡美さんは無農薬、有機農業にこだわっていたわけでもなく、農業について何も知らない全くの素人だったそうです。

いっしょにやっていく中で、大変さはもちろん、野菜づくりの奥深さおもしろさを実感してきたようです。

聡美さんは在来種を大事にしています。

その地域で種を採りながらつくり続けられている品種のことです。

学舎では「岡本いんげん」と「花子ねぎ」が在来種です。岡本いんげんは、新得に住む岡本さんがずっと種をとりながら、ここでつくってきたいんげんで、その種をもらって学舎でもつくり続けているのです。

花子ねぎも同じように、花子さんからもらったねぎの種から毎年種取りしてつくっています。

「種って買ってるんだ。ふーん。」と言っている私の前に、聡美さんは、どさっとカタログを置きました。

トマト、きゅうり、なす、ありとあらゆる種類の野菜の種のカタログでした。トマトでもたくさんの種類があります。

種会社から毎年カタログが送られてきてその中から選んで注文するのだそうです。

種は一代交配なので、一回しか実を取れません。翌年はまた、種を買わなくてはいけないわけです。

つまり、種会社がなければ、農民は作物をつくれないシステムになっているのです。

聡美さんはこれに危機感を感じています。だから自分で種をとってつくっていく在来種を大事にして、もっとその種類を増やしていきたいと考えています。

■これから■

結婚して半年になる聡美さん、共働学舎で働きだした定岡さん、そして安田さん。

これからそれぞれの登場人物に寄り添ってゆっくり撮影をしていこうと思っています。

新得、新内の風土や人間たちも撮っていきます。宮下さん夫妻、芳賀さん。

サホロスキー場の拡張問題はどうなっていくのでしょう。

この次は10月前半に2週間程撮影をします。

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